小説投稿20年、現在57敗中…(⑨待てど暮らせど電話は鳴らず)
北海道新聞文学賞で佳作に
2014年9月中旬の夕方でした。
北海道新聞社から電話があり、「最終選考に選ばれたので、10月〇日の午後6時から午後8時まで電話に出られる状態で待機していて下さい」と、伝えられました。
正直、全く期待していなかっただけに、「はぁぁ」「はあ」「は」「はい」と順番に答えただけで電話が終わりました。けれども、徐々に実感が湧いてきて、いつの間に頬が緩んで、自宅でスキップしていました。
そして、当日、電話の前で正座して待ちました。6時5分ぐらいだったでしょうか。連絡があって、「佳作に選ばれました。大賞は該当なしです」と。
さすがにいつも悲観的な妻も、笑顔でビールを注いでくれました。旨かった。
11月末には、ホテルで同文学賞の授賞式もあって、受付で「先生」と呼ばれ、胸章リボン(リボンバラ)を胸に付けられたときは、こそばゆくも、どこか誇らしい気持ちでケツの穴をきゅっと締めて胸を張りました。登壇して、ちょっとスピーチとかもして、拍手されて、選考委員の先生方や、新聞社のお偉いさんらと名刺交換したりもして……まさに夢のような時間でした。
後日、担当の記者から聞いた話ですが、同賞選考委員の李恢成先生が、強く推してくれたため受賞に至ったとのことでした。ただ、11月11日付け同紙に掲載された選評では、同選考委員の加藤幸子先生から、私の作品に対して「文学的香気が感じられない」と評されていましたので、選考会では対立していたのかもしれません。
とにかく、なんとか佳作にしてもらえて、「万歳」とはなりました。
でも、ですよ。まあなんと言うか、ちやほやしてもらえるのは、授賞式が最初で最後だったのでした。
待てど暮らせど電話は鳴らず
もしかしたら原稿依頼が来るかもしれない。
淡い期待を胸にして、数週間はトイレに行くときも携帯を持って入っていたのですが、電話は鳴りませんでした。
やっぱり、「⑧年齢で落とされるのか」で記載したように、
北海道新聞文学賞は「受賞後は受賞者とほとんど関わりがなくなる文学賞」なのかと、何も映っていない液晶画面を見つめていました。
携帯を机に置きっぱなしにするようになって、2ヵ月ほどたったある日、担当となっていた記者から「新刊の紹介記事を書いてくれないか」との依頼があったのです。
――これは。
紙面に私の名前や肩書きなんかも入るのかと、前のめりになりました。
けれども、新聞社に出向いてその説明を聞くと、一冊について150字程度のベタ記事で、
「学生なんかにも頼んでいる簡単なものですから」
といった感じでした。
はぁ、と肩の力が抜けました。まあ、それでも多少は家計の足しになるかと、何冊か紹介記事を書いていました。
そのうちに、担当記者から「来月、異動となりまして」との連絡があったのです。新任記者の名前を教えてもらい、挨拶のメールを書きました。
「今後とも、よろしくお願いします。自分は、これこれこういうもので、前任者とはこんな関係でした」みたいなメールを数時間かけて作文して送ったのですが、その返事は来ませんでした。
ちゃんとメールが届いたのか、それとも面倒な人物だと思われたか、はたまたこちらの下心が見透かされたのか、などと悶々(もんもん)としていました。が、元編集者の知人から、「向こうは記事を書くのが仕事であって、新人作家を育てるとか、親交を深めるといったことはしないだろう。文芸誌編集者とは、基本的に立場が違うんだよ」と諭されました。
(確かに、私もサンパウロ新聞時代、文芸関係の記事を書いたとき、書き手のことなど露ほども思っていなかった)
それ以来、かぼそい繋がりすら途絶えてしまいました。もっと積極的に連絡したり、顔つなぎしたり、営業したりすれば良かったのか、いまとなっては分かりません。
その後、北海道新聞文学賞に4回投稿しましたが、予選落ちが続いています。
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