ミセスの自己愛
私はどうしようもなくミセスファンなのでミセスの歌詞ばかり触れることになるのだが、久々にしっかり歌詞を見てミセスの良さを再発見、再確認するために記事を書こうと思った。
私はミセスの歌詞の中で自分を主体でなく客体として見ている歌詞が結構好きだ。自分を見つめ直したり、悲しみに暮れて立ち直ろうとする時、その状態を客観的に捉えて自分を抱きしめてあげたくなる時に僕も一歩引いた視点から自分を見ることがあるので非常に共感できる。
ここまでくると、「自分のこと好きすぎん?」とも思うがそのぐらいが丁度いいのかもしれないとも思う。
そして、自分というものは周りの人との相互作用によって形作られていくものだから、他人と思っていた人が自分の領域の一部にまで入り込んだ時に相手を真に愛せるようになるというのは納得できた。
「相手の幸せを心から願う」というのが少し綺麗事すぎて腑に落ちないひねくれた自分でも、「相手がすでに自分の一部であって相手の幸せが自分の幸せになる」という考え方ならストンと腑に落ちた
この歌詞も非常に良い。曲の1番のサビでは「アナタと私だけのハグにしよう」と歌っているのだが、曲が進む中で「アナタ」との関係が揺らいでいく、(あるいは「アナタ」など初めから存在しなかったのか?)そして途方もない孤独感に苛まれる中で対象愛でなく自己愛に移行して終わる。
精神の発達において、自己愛から成長して対象愛になるという考え方があり、その考え方でいくとこの自己愛は退行とも呼べる代物なのかもしれない。
最近のミセスの「存在の肯定」みたいな自己愛とは違ってこの歌詞には寂しさと諦めのようなものを感じるが、そこがひたすらに優しい。自分の気持ちが下がっている時にこの歌詞を聞くと同じところまで歌詞が降りてきて寄り添ってくれている感覚がある。
フェーズ2に入って「ケセラセラ」で自己の存在を確信を持って認めたかのように感じて少し遠いところへ行ってしまったように感じるが、大森元貴はまだ寂しさを感じていると私は思う。
理想としては自己の存在の全肯定や、人生を讃美したいところはあるが、何故か一抹の寂しさを感じてしまう。そこには矛盾を感じてしまうがそこが人間の良さであり美しさだと思う。