辞世の句
Twitterで紹介されていたので坂東忠信氏の著書「あなたがここに転生した理由」を読んでいます。
まだ途中なのですが(というか、先ほどKindleで購入して読み始めたところ)、いろいろと考えさせられます。
もともと通訳捜査官(正式な名称は異なるはず)をされていた方ですが、やはり死の淵にいらっしゃる方との生々しい邂逅を経験するのは一般人よりも多く、そのことや死後のことなど考える機会があったようです。
話の本筋ではないのですが、その場に及んで格好良く「辞世の句」を詠むには、それなりの準備や覚悟みたいなものが必要――みたいなことも書かれています。
若かりし頃に歴史小説などを読んでいて、いつも「こんなカッコいい歌を今際の際に!」と驚いたりもしましたが、当然準備がされているからこそです。
そういう準備をしていると、坂東さんは書かれていますが・・・・・・難しそう、と。
冒頭に載せた豊臣秀吉ともなれば、本人がその場で詠んだり書いたりしてみせなくても、用意されたものを祐筆のような方々が書き出して下さるでしょうが、果たして個人でも可能でしょうか?
死後開けてもらうように遺言して、封筒なり金庫なりを委託して、その中に残しておくとか?
入念な準備をしたつもりでも、その場に及んでは「どうしても思い出せない」ということもあり得ます。
こうして生きている今でさえ、突如として当たり前に使っていたり、口にしたりすることをど忘れしてしまう事があります。
それに熱が高かったり、眠かったりで、思いがけないことを考えたり口にしてしまったり、あるいは行動してしまうことさえあります。
入念に準備しておけば十分と言うよりも、個人の記憶に頼る危険こそが、その場では顕在化しそう。
それに今から「辞世の句」をひねり出そうにも、浅薄で哲学的な文言の含んだ歌を詠めるのでしょうか?
しっかり準備してあって、まさに家族に看取られながら、短冊に筆ペンなど(寝床で墨をすって筆を使うのは難しそうですから、墨汁に筆もあり?逆にサインペンでも可でしょうか?)用意。
元気な時に考えていたように、悠然と人生の深遠なる真実を書き留めようと思ったのに、どうしても思い出せない!なんてこともあるかも知れません。
その「思い出せない後悔」なんかを苦し紛れに詠っちゃうと、死後になっても笑い話になったりして、却って末代まで思い出してもらえたりする?
冗談(?)はさておき、当の本を読んでいて囚われる考えがあります。
確かに肉体が死んでも、魂とでもいうようなものは存在する可能性があるかもしれません。
でも肉体的制約から解き放たれた魂は、なんでも自由・・・・・あるいはかなりの自由を獲得できそうです(もちろん、そんな保証ありませんよ)。
でも、そうなると何かが足りない不満とか、反対に何かを達成したり手に入れたりする喜びもなくなっちゃう?
それでは生きている意味がない――って死んでいるわけですが。
それで思い浮かぶのが「ヒカルの碁」に出てくる佐為のことです。
千年以上も「碁を極めたい」という煩悩に囚われていた魂ですが、ある場面に遭遇して「わたしはこのために存在したのか」と悟った後、それこそ消え入るように徐々にいなくなってしまう・・・・・・・
魂のようなものが存在したとしても、やはり煩悩や妄執みたいなものから開放されたら、存在意義を失い、消えて行ってしまうような・・・・・・
私のこうした考えと同じようなことを生還者の中で話していた例も挙げられています。
本の表題への話の展開はまだ分かりませんが、いろいろと考えさせられながら読んでいます。