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子どもの教育と幸せの関係

功利主義を読んだ結論は、「最大多数の最大幸福」といえども自分の幸福を追求するのが大事だよ、というものでした。さらに余裕があれば、自分の周りの人も幸せにする徳の高い行動をすることで、よりより社会にしていこうね、というものでした。

なるほど、こういう思想を若者に流布することで社会をよくしていきたい、という教育的な気持ちはよくわかる。一人ひとりが自分の幸せについて考えるのはいいことだと思う。ただ、子育てをしている親の立場で、自分の子どもの幸せについて考えると、そんな一筋縄ではいかないだろう、という思いがどうしても生まれる。

子どもは、まだまだ将来のこととか見えていない。子どもが目先の幸せを追求することが、長期的にみて望ましい結果になるとは限らない。嫌がる子どもに無理やり勉強させることも決して正解ではないが、小学校の勉強くらい嫌でもやった方がトータルでお得なことは明らかだ。

子どもは親の所有物ではないし、子どもには子どもの自我があるのだから、それを尊重すべきだという言説も理解できるが、そんなことではいけないと思ってしまう親心が存在するのも事実。教育せず放ったらかしにしても、自分でいろいろと考えて学んで成長できる子だっているが、そうでない自堕落なだけの子もたくさんいる。どれだけ子どもの自由を犠牲にして教育を施すのが最大幸福につながるか、とても悩ましい問題だと思っている。

これは、親が子に与えられる文化資本だ。生まれつきの素性がよくない子でも一定の水準まで引き上げて社会で生きやすくしてあげる。そういう教育を施すこと。何も考えず塾に突っ込むだけが教育ではない、子どもの理解や成長、性格、やりたいことなどに合わせて、適切な選択肢を提示してあげる。どれだけ子どもに魅力的な提案ができるかどうか、それが親の持つ文化資本にかかってくる。

子どもの好奇心、ワクワクを刺激して、自然と「勉強したい」と思わせられるのがベストではある。でもなかなかうまくいかない。小学校の勉強だと、得意を伸ばすだけでなく苦手を補う側面も必ず出てくる。でも、その苦手なことは、小学生のうちに克服した方が絶対に長い目で見たらお得なんだ。それを理解してもらうのは難しいが、それを信じて勉強に取り組んでほしい。

これは親と子の信頼関係の問題かもしれない。子どもは親の言うことなんて聞きたくないだろうけど、それでも一理あるなと思ってもらえるかどうか。親の言うことを聞いてよかったと思ってもらえるかどうか。そして最終的に我が子が賢くなって、社会でよりよく生きて幸せになってくれれば、それこそが親にとって最高の幸せなのだ。

最大幸福への道のりは険しい。

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