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社会学的想像力:理性と自由
第九章です。かなり盛り上がってきました。
激動の現代社会
第八章で、歴史って大事だよね、という話をしました。皆さんもある程度は歴史的変化を頭に入れて考えていると思いますが、現在の社会の変化は急激すぎて、みなさんの歴史認識が古いまま全然現在に追い付いていません。
私たちの説明のあまりに多くが、中世から近代へという大きな歴史的移行に由来している。こうした説明を一般化して今現在にあてはめてみても、扱いにくく不適切で説得力がなくなる、
第四の時代のイデオロギー的特色──この時代を近代と区別する特色──は、自由と理性という観念が議論の余地のあるものになった、つまり合理性の増大が自由を拡大させるとは想定できないかもしれないということである。
ちなみに本書は1959年に書かれたものなので、第二次世界大戦後の変化がすごく急だ、みたいな話だと思います。2022年に生きる私たちからすれば、いやちょっと待てよ、そのころはそんなに変化してたっけか? 今の方が何百倍も急激に変化してるぞ? って思いますよね。たぶん、いつの時代でも全人類がそう思ってるんでしょうね。
では、筆者は何がそんなに大きく変化したと言っているのでしょうか。
自由が欲しいか?
すべての人が自由でありたいと自然に望むわけではないということと、自由に必要な理性を獲得するための努力を、すべての人がしようとする、あるいはできるわけではないということである。
なんとなく、みんな自由が欲しいって思うじゃないですか。でも、現代社会をよくよく見ていくと、意外と自由を欲していないんじゃないか、縛られていた方が幸せなんじゃないか、と感じる例が散見されます。
与えられた仕事を言われるがままにこなして、うまくいったら褒めてもらえる。やった、今日は頑張ったから褒めてもらえた、うれしいな、と喜ぶ、そんな陽気なロボットみたいな人が増えているのではないでしょうか。
現代、社会的事実としての人間の精神が質的にも文化水準においても堕落しているにもかかわらず、技術的な仕掛けがとてつもなく積み重なっているために、それに気づいている人は多くないという可能性に向き合わなくてもよいのだろうか。それが、理性なき合理性の、人間の疎外の、人間の事象における理性の自由な役割の不在の、一つの意味ではないだろうか。
そう。世界が豊かになりすぎて、社会が良くなりすぎて、私たちはろくに考えることなく漫然と過ごしているだけでも、陽気なロボットとして幸せに生きていくことができます。カリスマに没頭して自己喪失して、陰謀論にまみれて正義感をたぎらせて、周りに同調してただ大声で叫んでいるだけでも、飢えることも殺されることもなく、元気に生きていけます。素晴らしい社会ですね。
むしろ、自由なんて与えられたら、自分で考えなきゃいけない。自分で選択しなきゃいけない。それは大変なことだし、疲れることだし、みんな実は自由なんていらないんじゃないか。それが中世や近代とは大きく異なる点ではないかと思われます。
みんな陽気なロボット
社会の合理化の進展、そのような合理性と理性との間の矛盾、理性と自由の想定されていた一致の崩壊──これらの展開が、合理性は「ある」が理性はない人の台頭の裏に存在しているが、そのような人はますます自己合理化され不安にもなる。
自分で考えて、よりよい社会を作っていく、そうした理性を持つ人間は、ごく一部のエリートに限られているのが現状です。多くのひとは理性を失い、ただ合理性だけで動いています。こっちの方が儲かるよね、こっちの方が楽しいよね、こっちの方がみんなと一緒だよね、そういった合理性で判断して行動するだけの、ロボットやAIと大して変わらない存在にまで、多くの人間は堕落しているのです。
筆者は、たぶんそれは良くないことだと思っているようです。だから社会科学はこの問題に立ち向かわなければいけない、と使命感に燃えています。でも、あなたの死後60年、世界はより多くの陽気なロボットを輩出するばかりで、理性がどんどん失われて合理性に支配されているような気がします。残念ですね、ミルズ。