社会学的想像力:抽象化された経験主義のダメなところ
一気に第三章から第六章まで流し読みしました。だいぶ飛ばしたのであんまり理解できてないですが、とりあえず「グランド・セオリー」と「抽象化された経験主義」はダメなんだ、ってずっと言ってた気がします。
第三章より:経験主義とは
ここでは主に、アンケートやヒアリングによってデータを集めて統計的に解析することを指しています。世論調査みたいなもんですね。こんな意見がたくさんあるから、今すぐ改善すべきだ、みたいなことを主張するのは、なんだか説得力があるように思えますが、そんな世論をいくら積み重ねても、社会学的な学説にはたどり着きません。テレビの報道番組から有意義な提言が出てこないようなものです。
社会科学を発展させるために必要なのは、誰もが共通認識できる定義、言語、議論の体系を作り上げる「公分母」となることです。そのためには、目の前の問題に反射的に取り組むだけの経験主義ではダメだと筆者は言います。
第四章より:濫用される社会科学
社会科学は、政治、宗教、道徳、文化など、いろんな社会的な価値について中立的に判断するため、論理的に事実を整理して議論できるようにする必要があります。
しかし現実には、「こうすれば社会はよくなるんだ」といった偉い人の方針を示すためのイデオロギー的に使われています。権力者のスローガンとして、官僚たちの広報活動として、テレビ番組の権威的お墨付きとして、社会科学は一方的な主張を振りかざすように使われています。
第五章より:科学的という詭弁
ここでは「応用社会科学」「人間工学」「学閥」などを批判していきます。こうした様々な派閥が社会科学をねじまげ、社会学者になろうとする若者をめちゃくちゃにしていると怒っています。
これらの学派ではたいてい、社会科学ってのは科学的なものであって、道徳とか政治とかとは無縁なものである、と考えています。自然科学は、自然を客観的に操作してさまざまな現象を解明・操作できるようにしました。だから社会科学も、政治や道徳とは関係なく、正しい操作をすることで客観的に正しい社会構造に導くことができるはずだ、と。
そんなわけないだろう、と筆者は言います。歴史を振り返れば、あらゆる思想が政治的に用いられ、自然科学すらも人々の支配に利用されてきています。天動説とか分かりやすい例だと思います。
こうして社会科学も、「あたかも客観的で科学的で説得力がある」というオーラをまといながら、権力者が政治的に利用しているだけなのが現状です。その結果、真の意味での社会科学が微塵も進歩・発展していない、そのことを筆者は憂いています。
第六章:権力者の罠にはまらないため
社会科学は、現在進行形の社会について考える必要があります。自分も渦中にいるので、客観視することは難しいです。そのせいで、うまい分析手法なども確立できていないともいえます。
だからこそ、筆者は、特定のイデオロギーに染まらないように、自分だけの方法論を確立しろ、と言います。そしてみんなが自分なりの解釈を提示しあって、それを対等に比較しながら社会科学を深めていくべきだと言っています。
しかし、私たちはうっかりすると、すぐ「グランド・セオリー」と「抽象化された経験主義」のような、ダメな理論の虜になってしまいます。
筆者はこのように無理難題を押し付けてくるのですが、一応、その解決策みたいなのも書いてくれています。
さっき方法論者になれとか言ってたくせに、方法論よりも、本当にそれって問題なの? もっと注目すべきポイントがあるんじゃないの? という方が重要だと言います。まぁ、それはその通りだと思います。
ちょっと、流し読みすぎて間違ってるかもしれませんが、気づいたことがあればご指摘ください。よろしくお願いいたします。