正統的周辺参加 第2章「実践、人、社会的世界」抄読
最初に読んだときは難しすぎてザッと流してしまった第2章を詳しく読んでいきます。これまでの読んだまとめは以下をご参照ください。
学習に対するよくある見解~内化
学習というのは、何かしらの知識を自分のものにすること。納得して、理解して、腹落ちすること、と考えますよね。私はそう思います。仕事で「技術伝承をしましょう」といったらまさしく、先輩の技術を理解して、自分の中に落とし込むことを指しています。それの何が違うというのでしょうか。
いやいや、学習を個人単位で分析するのは自明でしょう。なんのために受験勉強してるの? 成績を比較するのは、どの個人が最も知識を吸収・発揮できるようになったかを知るためでしょう? 会社でも、知識を一番発揮できた人が評価されて昇進していくんじゃないの?
こういう「内化」の考え方は、さらに細かく3つのカテゴリーに分類できるそうです。
①外的支援(scaffolding)
一人で勉強するより、熟練の先輩に助けられながら学習する方が効率がいいよね。だから最初のうちはしっかりと手取り足取り教えてあげて、そこからだんだん一人立ちできるように手を放していく、というアプローチはよくあることだと思います。
②文化的知識
これは「文化資本」「ハビトゥス」みたいな考え方。日常的に文化的知識に触れる機会が多い人は、自然と知識を内化しやすいよね。
③集合主義(collectivist)
社会的な問題解決がどれだけ身近にあるか。社会問題を解決しようとすることが学習につながる、という正統的周辺参加の考え方に近いスタンスですね。
内化の考えの何が悪いのか
知識を個人の脳の中に蓄積するものと考えるのがどうしてダメなのか。
もうちょっと分かりやすい日本語で書いてほしいですね。おそらく知識というものは、ただ単に個人の中に存在するものではなく、社会との相互関係の中で意味が形成されていく、と言いたいんだと思います。
たとえば「地球は太陽のまわりを回っている」というのは単なる知識ですが、その意味合いは時代によって大きく変わります。かつて天動説が主流だった中世ヨーロッパであれば、そんなことを想像するだけで異端者として追放されてしまいます。現代の小学生であれば、地球が太陽のまわりを回っていて、今はちょうど遠ざかっているから寒い冬なんだな、と認識したりします。知識と経験は相互に強く結びついて学習されるのです。それは単純な脳の中への内化ではなく、自身の社会への参加具合によって大きく変動するものなのです。
学習とは参加である
学習とは、実践共同体への参加の度合いの増加である。実践共同体というのは、社会と関わり、社会を変容させていくための集団だと思う。まず先に社会への参加があり、そこへの自分の関り方の中から、様々な解釈が自分の中に蓄積していく。それが学習であり、社会における自分のアイデンティティの確立となる。
たとえば「多様性を尊重しよう」という社会的実践がある。これに対して「女性の差別をなくすべきだ」という関わり方の中からフェミニストとしてのアイデンティティを築く人もいれば、「お互いに干渉しないで存在を認めるのが正しい」という関わり方から、仏教に目覚めて解脱していく人もいると思う。このように学習とは、共同体への参加の仕方によって大きく意味合いが変化していく。
さらに、人々が参加して自らを変容させ、アイデンティティを確立していく中で、共同体自身もまた変化していく。女性の権利を守ろうとしていた団体が、徐々に男性への攻撃を主軸とした活動にシフトしたりする。
このように、学習というのは社会環境の中で常に変化していくものなので、個人の頭の中への内化だけで学習を考えようとするのは大きな間違いなのです。どうしていっぱい勉強して賢いはずの東大生が新興宗教にハマって破壊活動をするんですか、みたいなことも、学習=参加の図式であれば簡単に説明できるようになります。
以上、第2章はたった16ページしかありませんが、かなり濃い内容だったなぁと思いました。1回目はかなり上滑りした読み方しかできませんでしたが、2回目は少し詳しく読めるようになったかな、と思います。