良い「なぜ?」と悪い「なぜ?」
トヨタ生産方式の「なぜなぜ分析」は、開発生産をやっている人の間ではかなり有名です。問題が起こったときに、なぜ、なぜ、と5回は繰り返して考えを深く掘り下げて真の原因を究明しよう、というものです。
また、人を動かすリーダーシップのある人は、「なぜ?」を考えるのが非常に重要だ、という話もあります。
しかし人々がなぜなぜを繰り返すと、あいつがミスしたからだ、ちゃんと指示しなかった上司が悪い、など人に責任をなすりつけて本質を見誤るケースが往々にしてあります。
ギリシャ時代のソクラテスは、ひたすら「なぜ?」「なぜ?」と人々を問い詰めた結果、ウザいから死刑にされました。「なぜ?」という質問は、非常に攻撃的な力を持つようです。
どのような「なぜ?」が良くて、どのような「なぜ?」が悪いのでしょうか。
2通りの「なぜ?」
まず、「なぜ?」の質問を言い換えると、「原因は何か?」と「動機は何か?」の2つに分けられるのではないかと思います。
このうち「原因は何か?」というのは「いつ?」「どこで?」「誰が?」「何を?」「どうした?」といった「なぜ?」以外の質問に置き換えることが可能です。トヨタのなぜなぜ分析は、これを深めることを目的としているのでしょう。しかしここで「誰が?」と人に原因を求めてしまうと問題が発生します。
人間はそもそも間違いを犯すものだから、人に原因を押し付けても何も解決しません。人がミスするのを前提に、どうやったらミスしても問題が大きく波及しないようにするか、というフェールセーフの設計を考えることが開発生産においては重要です。個人差のパラメータが外乱として多少変動しても、安定した結果が得られるのが良いシステムです。
もう一つの「動機は何か?」は、リーダーシップに求められている「なぜ?」でしょう。それはあなたの信念を確かめるもの。理由なんてない、ただ何を信じるか、何を目指すかという想いを問うもの。
この質問は、突き詰めると己の信じる神の話であり、宗教の話になります。だから、「なぜ?」を繰り返したソクラテスは神を冒涜した罪とかいう理由で殺されたんですね。
そして、これは人の想いなので、別に正解はありません。なんでもいいんです。だから、考えたい人は永遠に考え続けられるし、深みにはまれば一生出てこれない沼でもあります。
「なぜあんなミスをしてしまったんだろう?」という問いに対して、原因をしっかり考えるのは良いことです。でも、そこで自分の動機を考え出すと負のスパイラルが始まります。「どうしてしっかり確認をとらなかったんだろう」「なんで問題ないと早とちりしてしまったんだろう」と、いくら動機を突き詰めたところで答えなどないのですから、ただ自責の念がつのるばかりです。そうではなく「寝不足で判断力が鈍っていたからだ」など、原因を突き詰めることが改善に繋がります。
良い問いを立てるため
以上のように、「なぜ?」には2種類の効用があり、それらは混同されやすいようです。だから、原因を追究したい場合は、「なぜ?」以外の質問におき替えた方が、きちんと原因に向き合えると思います。
また、他人に動機の「なぜ?」を投げかけることも、ソクラテスのようになる可能性があるので避けた方がいいでしょう。自分も同じ信念を抱いていると思えるならまだいいですが、異教徒にケンカを売ってはいけません。
そう考えると、「なぜ?」が有効に使えるシーンは、座禅を組んで瞑想しながら自分の心と真摯に向き合ってる瞬間くらいじゃないか、という気がしてきますね。だから、「なぜ?」は自分と語り合うとき以外は使わない方がいいんじゃないか、と処世術的に感じるわけです。
ありがとうございました。
(スペシャルサンクス:直清さん、えーごさん、でちさん、ただねかやくさん、白紙さん、ピノさん、ろくさん、ケイナさん)