ルトニ河を渡るヴィルについて

 なかなか既読者を見つけられず、感想を吐き出す先がない愛読書の一つに大陸シリーズがある。「アリソン」「リリアとトレイズ」と言えばピンと来る方もいるかもしれない(いてくれたら嬉しい……)
▼シリーズ一作目「アリソン」
https://honto.jp/ebook/pd_25556219.html

大陸シリーズにおけるルトニ河

 大陸シリーズの世界には「横が少し長い楕円形」の大陸が1つあるっきり、唯一の大陸に固有の名称はないし、他に大陸や島国の存在が示唆されることもない。
 アリソンから始まる十九冊のシリーズを通して、登場人物が大陸の外に飛び出すことはないし、大陸を囲む外海についてもそれほど言及されない。

 作中の歴史も相まって、海以上に大きな存在感を示しているのが大陸を等分するルトニ河と中央山脈。個人的な心象風景も影響して、僕にはこのルトニ河が三途の川に見えて仕方なかった。

 せっかくなので、ルトニ河が三途の川のメタファーと考えてみた場合、どんな大陸シリーズが見えてくるのかなって、とりとめもなく考えてみようかなと思う。
 なお、僕はヴィル推しのため、「ヴィル(または少佐または英雄さん)とルトニ河」に焦点を絞ってしまいます(あんまり風呂敷を広げると話が散らかってまとまらなくなるので……)。

ルトニ河を渡るヴィル(または少佐または英雄さん)

 まず、ヴィル(または少佐または英雄さん)がルトニ河を渡るシーンを確認してみた。
※①〜⑤は時系列に並べた場合の順。

●渡った(ロクシェ→スー・ベー・イル)
①『アリソン』第三章「残った者達」
②『アリソンⅢ<上>』第二章「元戦場に架かる橋」
⑤『一つの大陸の物語<下>』第十九章「真昼の夜の決闘」

●ギリギリ渡れなかった(ロクシェ側に留まる)
③『一つの大陸の物語<上>』第一章「アリソンとヴィル」
④『一つの大陸の物語<下>』第十二章「トラヴァス少佐の戦い」

 今回は、ルトニ河付近にヴィルがはっきりと描写されているシーンだけに絞った。こうしてみてみると、興味深いことが見えてくる。

●リリトレでの描写。
 『リリアとトレイズ』の六冊では、ヴィルがルトニ河を渡る・近寄る描写がない。しれっと少佐が本国に帰っていたりはするが、ルトニを渡るシーンが描かれることはない。

●河を渡る向き。
 『アリソン』および『一つの大陸の物語』では、ヴィルないし少佐がルトニを渡ったり渡り損ねたりするが、それは常にロクシェ→スー・ベー・イルの向きだ。逆向きの話はない。

 『リリアとトレイズ』にルトニ河を渡る少佐の姿が描かれていない点は今回、これを書く上で改めて認識して、僕としてはちょっとした発見だった。

ルトニ河を渡るのはどの『ヴィル』か

 こうみてみると、実はヴィルが心身ともに『少佐』の状態で『河を渡り切る』シーンがシリーズを通して存在しないのではないかと気付く。前述の①〜⑤を確認してみたい。

・①②
 アリソン時代なので、河を渡ったのは少年ヴィルだ。少佐はまだ存在しない時の話だ。

・③④
 トラヴァス少佐としてスー・ベー・イルの飛行士達に囲まれていた。心身ともにトラヴァス少佐だったとみなしていいだろう。そして、『トラヴァス少佐』は河を渡ることはできなかった。

・⑤
 地の文では『トラヴァス少佐』として描かれている。しかし、「心身ともに少佐」とは言い切れないだろう。
 このシーンの少し前、第十六章でフィーが彼は今、ヴィルと少佐の中間にいると発言している。サイラスもヴィルと少佐のどちらなのか本人に尋ねている。そして、河を渡る直前、昼の夜が終わった直後の地の文でも彼はトラヴァス少佐からヴィルに戻りつつあることが分かる。
 ⑤でアリソン機に乗って河を渡った彼の心は限りなく『ヴィル』に寄っている状態だと考えても差し支えないだろう。

 さて、繰り返しにはなるが、大陸シリーズの描写のみに注目すると、彼が河を渡り切るシーンは『ヴィルとしてロクシェ側から河向こうに渡る』ことと同義である。
『少佐としてロクシェから河向こうに渡る』『ヴィルとしてスー・ベー・イルから河向こうに渡る』といった意味合いの描写は存在しない。むしろ、トラヴァス少佐は、少佐としてロクシェから河向こうの祖国に帰ろうとすると死にかける。
 これはチンケな僕の脳みそでもわかる。普通に考えてもエモい。実に興味深いじゃないか。

ルトニ河と三途の川、そして少年ヴィル

 少佐として河を渡ろうとすると死にかけるって話が出たので、ここで、ようやくルトニ河と三途の川を絡めてみたいと思う。そろそろ原典から逸れて妄想も入り乱れ始めるので悪しからず。

 シリーズ冒頭、ルトニ河は容易には渡れない、越えてはいけない大河として登場する。河向こうの人間とは相容れない。ロクシェとスー・ベー・イルはルトニ河(および中央山脈)で明確に区別される。
 この設定、僕にはもうあの世とこの世の対比にしか見えなかった。
 ただし、スー・ベー・イルの河向こうがロクシェであるように、その関係は合わせ鏡のような状態だ。つまり、「三途の川の向こう側もまたこの世」という構造になっている。

「三途の川の向こう側もまたこの世」
 このとき、ロクシェ側のこの世とスー・ベー・イル側のこの世が存在するが、これはどちらも同じ「この世」だ。しかし、ヴィルにとって、二つのこの世はイコール関係ではなかったのかもしれない。実際に河を渡った少年時代の①②について考えたい。

 ①でヴィルは初めて三途の川を越えた。その先で彼は歴史的発見をする。
 帰路のシーンは描写されていないが、ロクシェに戻ってきて、ラプトアでアリソンを迎えた彼は『ヴィル』でありながら『英雄さん』にもなっていた。ただの純粋無垢な少年ヴィルではなくなっている。

 続いて②だが、まずここで注目したいのは、再び三途の川を越えた『ヴィル』かつ『英雄さん』は、リリアーヌのシーンを最後に十数年間物語の中で描写されない点だ。
 リリアーヌのシーンの後、彼が次に描写されるのは、首都のアパートでリリアやトレイズとトラヴァス少佐が会うシーンだ。つまり、物語の描写において、河を渡った『ヴィル』かつ『英雄さん』は、ロクシェに戻ってきたとき『少佐』になっている。二度、三途の川を越えた彼はもう、純粋無垢な少年でもなければ、ヴィルでもない。

 このように、河を渡った彼は、必ず何か別の存在、『英雄さん』や『少佐』としてロクシェに帰ってくる。
「三途の川の向こう側もまたこの世」だか、彼は二つの「この世」を『ヴィル』のまま行き来することはできない。それこそ、三途の川を渡った存在がこの世に亡霊として戻ってきているような印象を受ける。
(一方、アリソンは河を渡っても帰ってきても『アリソン』のままという印象が強い点と対比させても楽しそうだが、ここでは深掘りしない。)

ルトニ河と三途の川、そして死んだヴィル

 最後に⑤についても考えてみる。
 トラヴァス少佐では河を渡れなかった彼も、限りなくヴィル寄りの状態であれば河を渡れた点は前述した通りだ
(この描写は、『少佐』が成仏(?)しないと河を越えられない暗示のようにも見えて個人的にとてもエモいのだが、ここを深掘りすると、おそらくアリソンやサイラスを引き合いに出さなければならなくなるので、ここでは触れないでおく。)
 一度目と二度目、ヴィルは三途の川を渡ることで『英雄さん』と『少佐』になった。では、三度目の⑤はどうだろうか。

 ⑤の直前、昼の夜の戦いを終えた「限りなくヴィル寄り」の彼が河を渡ってラディアに抱擁されてから、次に彼が描かれるのは結婚式のシーンだ。
 これを「ヴィルに戻った」と捉えることもできるが、三途の川を渡って彼は『パパ』になった、と捉えてもいいんじゃないかと思う。

 ⑤の前後、彼は三人の女性と一緒にいる描写がある。アリソンとラディア、そしてリリアだ。
 彼が『ヴィル』であろうと『少佐』であろうと、彼の正体を知るアリソンやラディアにとって彼は常に『夫』であり『息子』だ。これは彼が河のどちら側にいても揺るがない。
 一方、リリアにとって『パパ』は「死んだヴィル」以外の何者でもない。あの世から蘇りでもしない限り、『パパ』が目の前に現れるわけがない。恐らくこれは『英雄さん』でも『少佐』でも代替できない。

 ルトニを三途の川のメタファーと仮定してモソモソ考えていた僕はここで興奮するわけだ。
 ⑤、三度目、シリーズ最後にヴィルがルトニ河を渡ったあのシーン。あれは、ヴィルが死に、そしてあの世から蘇るための描写だった、とみなすことができるのではないか? リリアの元に『英雄さん』でも『少佐』でもなく、「ヴィルという名前のパパ」として帰るためには、あそこでヴィルが三途の川を渡って「死んだヴィル」になる必要があったんじゃないか。
 そんな拡大解釈をしてしまうオタクゴコロを許してほしい……。
(第二十章終盤と照らし合わせながらシュルツ夫妻視点で、三度目のルトニ越えについて拡大解釈するときっと楽しいと思う。が、話が長くなりそうなので、今回は深掘りしない。)

ルトニ河を渡るヴィル

  ヴィルヘルム・シュルツは、人や時代、場所によってさまざまな呼ばれ方をする。
 ヴィル、英雄さん、トラヴァス少佐。
 ヴィル以外は、彼がルトニ河を渡らなければ呼ばれることのなかった呼び名だ。
 そして、シリーズの最後まで呼ばれることのなかった呼び名が『パパ』だ。距離を測りかねる父娘がとても愛おしい僕個人としては、呼ばれずじまいでむしろよかったと思っている。
 ただ、彼はルトニ河を渡って「ヴィルという名前のパパ」になってリリアの元に帰ってきた。これもまた、ルトニ河があったからこそだと思いたい。
 十九冊のシリーズを通して、ルトニ河の登場シーンはそれほど多くない。しかし、「河を渡るヴィル」という視点でのんびり眺めてみると、これほど面白く興奮する舞台装置はないんじゃないかと思う。つまり、あれだ。
 ルトニ、エモい。

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