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 短編小説:『テトラの嫉妬』 全文


 そのネオンテトラは松山市内のオフィスで薫と呼ばれている。

 薫はペットショップの水槽で泳いでいるところをIT企業の社長に見いだされ、オフィスに連れて来られた。ネオンのように青と赤に輝く姿が気に入られたらしい。二年以上前の話である。

 社長は変わっている。

 熱帯魚の薫から見てもそう思う。

 デスクのパソコンに向かっているときの貧乏ゆすりがひどい。一分間で両足を百回はゆする。若い美人と話すときの声がうわずる。電話で横柄な態度を取られると途中で電話を空中に投げつける。難しい仕事をスタッフに頼むときは猫なで声に変わる。

 「単純。煮ても焼いても食えない」は、スタッフたちの社長評である。薫は「煮る」も「焼く」も意味が分からない。自分でしたことがないから当然である。それでもいい意味ではないことぐらいは理解できる。

 始めはオフィスの水槽に仲間が九匹いた。ネオンテトラは体が小さいため、幼魚のうちは性別の区別がつかない。薫も成魚に育ってから性別がはっきりした。薫を含めてメスが五匹、オスが五匹の半々。ペアリングを考えて十匹を買い求めた社長の期待通りになった。

 社長の仕事は、人間とペットの会話を翻訳する携帯翻訳機の開発である。その機器があれば、他人のペットの犬や猫の好き嫌いから、感情、欲求、よもやま話までを会話を通じて理解できる。飼い主とペットの個別的関係から人間と動物の一般的関係へ一気に飛躍する可能性がある。地元の大学の協力を得て、犬猫の脳の血流や脳波の変化と行動様式の関係を人工知能(AI)に一日中、学ばせている。

 「五年以内にヒトは犬や猫と自由に会話ができるようになる」と開発事業の出資者に社長は説明する。これはどうも怪しいと薫は考えている。
嘘を言うときに必ず頭をかく社長は、出資者の前でも頭をかいているからである。それでも薫は社長の役に立ちたいと考え、ネオンテトラと人間の会話翻訳機の基礎データとして頻出テトラ単語集をまとめている。

  *             *             *

 事件が起きたのはちょうど半年前である。

 ネオンテトラと同じ数のメダカが水槽に放たれたのがきっかけだった。松山市内を流れる石手川で社長の捕ったメダカと薫たちをペアリングさせようと考えたらしい。社長の悪ふざけの一種である。実際は、それぞれ種が大きく違うので交雑はしないのである。

 「そんなことも分からないのか」

 薫は社長を水槽から何度もにらみつけてみた。

 野性のメダカがネオンテトラと混泳するのに時間はかからなかった。野性の性質が薄れつつあるとはいえ、メダカは人影を見ると群れ、集団行動を取った。個の行動を重んじる薫たちネオンテトラからすれば、メダカは「臆病者」そのものだった。人間と魚の会話を翻訳する機器は、人間と犬猫の会話を翻訳するそれに比べたら、何十年もあとに開発されるだろう。ネオンテトラはそのとき、メダカのことを「臆病者」とは決して言わない。ただ、態度には出してしまう。薫はそう思っている。

 「メダカはそっぽを向くに違いない。いや、それなら耐えられる。『美魚だからって、うぬぼれるんじゃないよ!』と非難されたらどうしましょう」
 事件から三週間ほどたったころから、薫は心がざわめくようになった。初めての経験である。

 メダカの群れが大声で歌う曲を繰り返し聞かされた。

 「〽めだかのがっこうはかわのなか……みんなでおゆうぎしているよ……めだかのがっこうはうれしそう……みんながそろってつーいつい」
 楽しそうだった。一匹が自慢のソプラノで歌い始めると、つられた別の九匹がアルトやテノールで調子を合わせた。薫はメダカの美しい合唱に驚いた。そして集団主義に圧倒された。

 ざわめく心を何と表現したらいいか。薫には分からなかった。だから歌をまねて心をまぎらわせてみた。

 「〽テトラのがっこうはかわのなか……みんなでおゆうぎしているよ……テトラのがっこうはアマゾンで……だれもがひとりでつーいつい」
 始めは小声で歌った。調子が大きく外れた。段々と腹から声を出して歌った。大声になると調子が整った。薫はうれしくなった。

 ネオンテトラの仲間たちは冷ややかだった。「なにがそんなにうれしいんだろう。いっそ、めだかの学校に入って、汚いめだかになってしまえばいいのに」

 薫のあとに付いて「テトラの学校」を歌う仲間はいない。薫に聞こえてくるのは陰口ばかりである。ネオンテトラは個人主義者だから、自分以外の魚に調子を合わせたり関心を向けたりすることはない。薫はそれをよく分かっている。

 合唱は「めだかの学校」だけでは終わらない。

 「〽めだかのきょうだいがかわのなか。おおきくなったらなんになる?……」

 「学校」に飽きたら次は「めだかの兄弟」である。

  *             *             *

 オフィスの片隅でいつもジャンプしているハエトリグモが声をかけてきた。
 「薫さ~ん。薫さ~ん。ぼくの声が聞こえますか。落ち込んでいるみたいですね。ぼくにできることがあったら協力しますよ」

 薫はハエトリグモが嫌いである。クモなのに巣を張らず、体調は一センチ未満。視力に頼り獲物に飛びかかる姿はクモの常識から外れている。「変なクモ」の相手をしたことはない。それでも落ち込んでいるときにかけられる優しい声は、何ものにも代えがたい救いの手である。

 「めだかの学校」と「めだかの兄弟」の合唱を聞くようになって以来、心がざわめいてしょうがないことを薫はハエトリグモに打ち明けた。

 「心がずっと落ち着かないの。『テトラの学校』と『テトラの兄弟』という替え歌を作ったのに、誰も一緒に歌ってくれない。寂しいわ」

 ハエトリグモは薫のことがよく理解できる。自分も個人主義者だからである。二匹が一つの容器に入れられるとハエトリグモは共食いを始める。なぜかと聞かれても答えられない。世界は自分だけで成り立っているからである。仲間のことなんか眼中にない。だからネオンテトラは自分たちハエトリグモと近いと思うのだ。そのことを言うと、薫は不機嫌になった。

 「わたしがハエトリグモに似ているって?それはあんまりだわ。だってあなたは泳げない。青と赤のネオンを輝かすこともできない。社長から『癒される!』ってほめられないでしょう。それにグロテスクだわ」

 ハエトリグモは穏やかに反論した。

 「そちらこそあんまりです。確かにぼくは泳げません。体にネオンはありません。社長からほめられることもありません。じゃ逆に聞きます。薫さんは獲物をめがけてジャンプできますか。天井を自由に動けますか。人間に害となる悪い虫を食べてあげられますか」

 ネオンテトラが泳ぎ回れるのは水槽の中だけ。それに対してハエトリグモは自分の意志でどこへでも行ける。生きる世界の広狭は明らかである。ネオンテトラは癒し効果を社長にもたらす。それに対してハエトリグモは害虫を駆除することで社長の安全を守る。存在の有益性の大小は明らかである。
自分と他者を比較することのなかった薫は、打ちのめされた気持ちになった。

 ハエトリグモはすまなそうな顔をした。

 「薫さん。傷つけるつもりはないんだ。ぼくらは同じ個人主義者だよね。だから他者との比較をしてこなかった。いったん比較しだすと、自分は勝っているとか劣っているとか、それに囚われる。バカだよね。自分は自分なのに。自分を肯定できなくなる」

 薫は思い切ってメダカについて質問してみた。

 「集団主義のメダカたちは、自分と他者を比較しないのかしら。比較して他者をうらやんだり、自分を肯定できなくなったりすることはないのかしら。どうなの?」

 う~んと言って、ハエトリグモは黙り込んでしまった。

 二匹のやりとりを聞いていた観葉植物のベンジャミンが口をはさんだ。細い幹の先に明るい緑の葉っぱをたくさん茂らせている。

 「薫さんはメダカたちといつも一緒に泳いでいるから、わたしたちより詳しいはずよ。 群れて泳いで合唱をしているかぎりは、他者との比較はしないでしょうね」

 そう言われて薫は口を開いた。

「テノールもいればバスもいる。ソプラノもいればアルトもいる。みんな自分の役割に徹している。誰もが楽しそうに見える。不平不満はない」

 皮肉を言わせてもらうわとベンジャミンは言った。「集団に埋没しているから周りが見えないだけとも言えるわよ」

 薫とハエトリグモはハッとした。他者と比較することがないから、うらやましいとか他者に認めてもらいたいとかいう気持ちがメダカには起きないのである。それは心がないということと同じだと薫は理解した。

 それ以来、薫が編集中の頻出テトラ単語集には「心」と「嫉妬」が一ページ目に出てくる。                    (おしまい)
                      
[編注]本稿は短編集に収めて出版する予定です

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