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#01 建築マニアから見た不幸な公共施設とは?

僕は自他共に認める建築マニアだ。大学で建築を学び始めてからかれこれ30年以上が経ち、仕事でも毎日のように建築(公共施設)に触れているのだが、建築というものが好きすぎて、趣味なのか仕事なのか判断が付きかねるくらい領域が曖昧な存在だ。

仕事上は、公共施設を専らのターゲットとしているため、自分のまちの公共施設はもちろんのこと、建築マニアがたたって、全国各地を訪れた際には様々な建築を見て廻ることが日課となっている。少々ワーカホリック的な部分もあるが、まぁ建築が好きなのである意味、趣味みたいなもんである。

で、今回はまず第1回目のnoteなので、そんな建築マニアから見た公共施設について、僕なりに感じている不幸な側面に焦点を当てて書いていこうと思う。


そのそも公共施設って何よ?

公共施設を詳しく定義していくと、少々やっかいというか複雑なので、ここで言う公共施設とは行政(国や地方自治体)が所有する建築物(ハコモノ)ということにしておこう。なので大抵の場合、自治体が建設し、利用する人の大半はそのまちの住民ということになる。
その中身というか目的は多様で、代表的なものとして、庁舎・学校・福祉施設・スポーツ施設・文化施設あたりが挙げられるが、名前から判断すると中身がよく分からない「○○交流施設」とか「にぎわい○○施設」なんてのも実は多かったりする。
公益性が高いものが一般的で、僅かなお金を払えば、誰でも利用できるような施設だったり、施設利用料は完全に無料というものも数多く存在している。
こう書くと住民にとってはなくてはならない施設のようにも思えるが、実はそんなに利用されていないというのも事実(若い世代には特に人気がない)で、ここにさっそく不幸な側面も見え隠れする。

公共施設の「建てられた方」に感じる不幸な側面

僕は公共施設を「建てる」側での仕事を何年もやっているので、まずは建てられる時に感じる不幸な部分について書いていくこととする。

公共施設は多くの関係者(住民や関係団体をはじめ、庁内にも関係組織が多数)がいるので、誰がその中心にいるのか?と言われると非常に分かりにくい構図となっている。個人が建てる一戸建て住宅なんかと違って、「公共施設のクライアントは誰なのか?」と聞いた時、正確に答えられる人は果たしているだろうか?

この問いに対して専門的な僕ですら、明確な答えを持っていない。一義的には首長ということになるのだろうが、残念ながら首長は施設の内容についてまで、細かく指示するようなことは稀有だろう。
では、役所内で施設の担当となる①所管課の職員はどうだろう?確かにここがコントロールタワーとなれば良いのだが、そもそも公共施設に詳しくない人が担当していることも珍しくない。
ならば、設計や工事を担当する②営繕部門はどうだろう?ここが公共施設に一番詳しいと言えるが、残念ながらここはお金を握っていないのと、役所内では下請け的な存在になっていることが多い。
それでは、施設を実際に③運営する人たちはどうだろう?直営施設の場合は、この人たちが強い意見を持っていることもあるが、ここが未定のまま進められるケースも少なくない。

このように、誰が発注者か分からないまま、整備が進められることが多いことは、不幸なものを生み出しやすい要因の一つだろう。最終的な判断を下す人が曖昧だから、責任の所在もフワフワしている。ましてや、「○○交流施設」なんてのは、ターゲットとなる利用者も不明なままであったりする(笑)

公共施設の「運営」に感じる不幸な側面

前述したとおり、「運営者」不在のまま設計・建設が進んでいき、後から入ってきた運営する人たちにとって、非常に使いづらい施設となるのは良くあるケースだ。
ただ公共施設がそれ以上に不幸なのは、運営に対する「お金」の問題である。

最初に書いたように公共施設は非常に低廉な利用料金で運営されていることが多い。これが全ての原因という訳ではないのだが、当然そうなってくると収益性でも劣ることとなり、維持管理費は税金で賄われることとなる。
税収が潤沢にあった時代ならそれでも良かったのだろうが、公共施設は増え続け、もはや全てを税金で賄えるだけの体力が行政にないのは明白だ。

そもそも「稼ぐ」気がないというのもダメな部分で、安いサービスだから、提供するサービス水準も低くて当たり前、みたいな感覚が蔓延っていることが嘆かわしい。予算がないから色んな設備や内装は壊れたまま放置されていたり、エントランスのベンチに平気でガムテープが貼ってあったりすることも。

僕はそんな理由でガムテープが大嫌いなのだが、公共施設でガムテープを見ると本当に不幸な気分になってしまう。

迫り来る「老朽化」との戦い

公共施設は高度成長期以降に多く建てられ、築40年を超えるものが半数以上を占めている。当然ながら老朽化も進んでいて、それがしっかりと保全されていれば何の問題もないのだが、現実はそんなに甘くはない。

老朽化した公共施設をどうやって保全していくのか?どうやって更新していくのか?というのは我が国が抱える大きな問題であるが、何か解決策があるのだろうか?
国が進める長寿命化計画に従い、計画的に保全する?そんなの机上の空論で絵に描いた餅でしかない、と僕は感じている。
当然ながら指を咥えて何もやらないよりは、何かしらの手を打った方が良いに決まっているのだが、現実はもっと厳しい。保全に対する「お金」が圧倒的に足りていないのだ。


単に減らせば良いのか?という問題

では、全国のどのまちでも掲げている「公共施設は向こう○年で○%削減します」という計画に従って、着実に減らしていけば良いのだろうか?
もちろん減らすことは有益な手段で、僕たちも日々減らす手立てを考えているが、そうそう簡単に減らすこともできないのが公共施設。
役所という組織は、「みんな」の意見を大切に重んじなければいけない不条理な組織であるため、公共施設を辞めようとすると、まちに存在するステークホルダーから滅多刺しを喰らい、辞めることを辞めるということも少なくないのだ。

一方でこれとは反対のことが起きることもある。長野市の公園廃止は逆のパターンで、これはかなりレアなケースと言っても良いが、多数決とか総論では決まらないという公共施設の立ち位置を象徴している事例だろう。


不幸な公共施設から脱却するための処方箋

では、公共施設をどうやったら不幸な存在から救い出し、幸せな存在にしていけるのか?
これには様々な処方箋が必要だと思われるが、僕が現在最も力を入れているのが、公民連携という分野であり、公共施設をいかに「稼ぐ」施設へと転換していくかという部分である。
公共施設を不幸たらしめている原因には、その立ち位置だとか建てられ方などもあるが、やはり「お金」の問題に起因することが一番大きいのは間違いない。

お金の動きをマイナスからプラスに逆転させ、まちにとって負の資産からプラスの資産へ転換することによって、そこに関わる人たちを幸せにするとことが、僕の活動の大きなウェイトを占めている。
それは決して簡単な作業ではないが、誰かがやろうと思えばやれるもんだ。やっている僕が言うのだから間違いではないだろうし、やっているからそこそ説得力を持っているとも言える。
ちなみに僕が中心的に関わった「グラスハウス利活用事業」は不幸な建築から幸せな建築へと転換することが裏テーマになっているプロジェクトだ。

今回は第1回目ということでざっくりとしたことで終わってしまったが、僕が行なっているプロジェクトのことや、詳し内容は次回以降で。
ということで第2回以降もお楽しみに。


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