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037 般若心経2

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

 般若心経の最初の文章は、ここで完結する。内容は【観自在菩薩】のことを述べている。次に出てくる【舎利子】に教えを説いている人物(神仏)が述べていることは明らかであるが、それが誰かははっきりしない。仏教の経典にしても、キリスト教の聖書にしても、イスラム教のコーランにしても、それらは教えと同時に初めから存在したもので、誰かが作成したものではないとする。したがって作者というものを考える必要はない、というのがそもそもの考えである。もちろん言葉で書かれているので、言葉も初めから存在している。
 しかし、信者以外からすれば俄かに信じ難いし、信者であってもそれはないだろうと考えてもおかしくはない。お経は基本的にはお釈迦様の教えを説いているので、そのことが反映しているのは間違いないが、般若心経はお釈迦様の没後500年ほどしてから作成されているので、実際のところはどうなのだろうか。その辺は曖昧にして先に進んでみる。
 【観自在菩薩】は修行をしている。あるいはしていた。その内容は【般若波羅蜜多】である。この世の成り立ちや物事を深く考えて理解することを目的とする修行である。どんな修行か、具体的な内容は分からない。
 修行をしている時に、【五蘊】はみな空であると【照見】した。【照見】は見極めたというよりは、見抜いたということであろう。そして、一切の【苦厄】を【度】した。この【度】という言葉はたいへん幅広く使われているので、適訳は良く分からない。このまま、度したと言っても何となくわかるような気がする。一番近い言葉として、コントロールと考えたい。つまり制御である。
 何を制御するかというと、【苦厄】を意識する心であろう。もう少し広く、身体を含めても良いかも知れない。つまり【五蘊】が空であると見抜いて、【苦厄】を制御した、ということでどうだろうか。【五蘊】については、このあと示される。

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