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【再掲】神戸の夜景

「神戸の夜景は見たくない」

切にそう思っていた時期がありました。小学生から中学生にかけての時期です。ちなみに、2000年代ぐらいです。その頃の私は、発達障がいの特性のせいか教室に思うように入ることができず、学校に行かなきゃ・今日こそ学校に行きたいと思っているにも関わらず、登校しようとすると動悸・めまい・吐き気に襲われる、そして保健室に行くのがやっとという日々を送っていました。いわゆる「不登校」みたいなものなのですが、不登校でも土日は格別です。みんなも学校に行かない土日であれば堂々と学校をお休みできるので、土日を毎週心待ちにしていました。土日がくると、県外に住むおじいちゃん・おばあちゃんの家に行き、心身の英気を養いました。一日、時には泊まりで数日かけて身と心を立て直し、地元に帰るのです。紹介が遅れましたが、私の地元は表題の「神戸」です。

おじいちゃん・おばあちゃんの家を出た車が、あるいは乗車した帰りの電車が、兵庫県に入ると「あー、もう日常に戻ってしまう、また動悸にめまいに吐き気に苦しむ一週間だ」と憂鬱になります。そんな私にトドメを刺すのが「神戸の夜景」でした。車であれば阪神高速3号線、JRであれば神戸線の六甲道駅周辺で、とても綺麗な神戸の夜景を眺めることができます。観光地になるのも納得の綺麗な綺麗な夜景ですが、【神戸に帰ってきた=現実への帰還=不登校の現実に戻る=心身症に悩む】という公式が出来上がっている私にとって、その光景は苦しみが始まる合図でした。先天性の発達障がいが原因で苦しいのであれば、神戸と苦しみに因果関係は無いのですが、学校のある神戸にいると苦しいと感じていた当時の自分は神戸に八つ当たりしていました。こんな街に戻りたくない、と。

24年現在、NHK朝の連続ドラマ小説『おむすび』では、阪神淡路大震災のあった1995年当時の神戸が登場します。その神戸には、綺麗な夜景などなく、倒壊した家屋や火の粉にまみれた路地、家を行き場を無くした方が街の全てとなっています。95年1月の地震当時のことを同年9月産まれの私はこの眼で見てはいませんが、神戸で被災した親から、街が燃えていた時の様子のことなどをよく聞いてきました。また、神戸で防災に関する教育を受けて育ち、阪神淡路大震災と神戸のことを知識としては得てきました。


2010年代、大学生として私は県外に進学しました。どこかで神戸の水が合わないんだと思い込んでいた私にとって、大学進学は地元を離れる格好のチャンスでした。神戸を離れた私は青春を謳歌しました。学業、サークル活動、飲み会、コンパ、自分なりに華のある生活を送りました。でも、世間が決めた青春に必死でしがみつく生活はとてもとても楽しかった一方、心身への負担にもなりました。大学4回生を迎える直前にきついうつ病を患い、毎日を「普通に生きる」ことが難しくなりました。

2017年3月、21歳の私は「死」を意識しました。病気に苦しむ私を励ますため開催してもらった仲間との集いの帰り、私は神戸市内の自宅に帰る気力をも失い、神戸港の海辺をウロウロと放浪しました。真っ暗で黒く見える海を前に座り、涙をポロポロとこぼしながら、でも飛び込むような決心もつかず、ただただそこにいました。そのままそこに居座り続ければ本当に死んでしまっていたかもしれません。ただ、いま当然のように生きていられるのは、私がスマホを触っていられるのは、父のおかげです。家に戻ってこない私を捜索してくれていた両親なのですが、なぜ広い市内、広い海辺の中で私を見つけてくれたかというと、私の父は生徒指導に関わる仕事をしていたことがあり、このような状況下においてはどのような場所に行きがちかということを冷静に把握して探してくれていたからなのです。両親に保護され、後日精神病院に入院し一生懸命に治療に励んだ結果、短期間で退院することができ、無事2018年3月に4年での大学卒業を果たしました。何より、未来への道を繋ぎました。

2020年代、高校教員になった私は、実家から神戸市外に働きに出るようになりました。仕事帰り、精魂をすり減らして電車に乗っていると、あの日にはなかった、そしてあの日と変わらない夜景が私を迎えてくれます。「よかった、今日も無事終わった、今日も無事帰ってこれた」とホッとする瞬間です。夜景を嫌っていた私が夜景に救われるようになりました。

今回掲載した夜景の写真は、私が撮影したものです。神戸から九州方面に船旅した際に、甲板から撮りました。本当に綺麗だったので「Instagramに載せよう」などと思う前に、既にシャッターをきっていました。そういえば、偶然にも神戸と九州と、朝ドラの舞台に関する旅行にもなりました。

阪神淡路大震災のことを知識としては知っていた私、生命の大切さについての作文で良い出来であると表彰された私ですが、本当の意味で生命のことを悟っていなかったのかもしれません。今もまだまだ途上なのですが。95年9月産まれの私は、95年1月の震災をお母さんのお腹の中で経験しています。無事産まれて生きていられるのは、お母さんがお父さんがお姉ちゃんが親戚が神戸の人が街が、その大変だった時から守ってくれたからに違いありません。そのことは辛い時こそ思い出そうと思います。

神戸の街が綺麗と感じる日がきてよかった

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