出生に関して
19□▲年 5月17日日曜日の午前4時30分ごろ栃木県鹿沼市上都賀病院で生まれた。3530グラム、身51.5センチ頭位5.5センチの当時ではとても大きな赤ん坊であったそうだ‥血液型はO型
母によると食欲旺盛でミルクをがぶがぶ飲みご飯もいくらでも食べる健康優良児であったそうだ‥
ただし出生に関して…気になることがあった…それは右目が真っ赤に充血して生まれてきたこと…
5歳か6歳位の事だったとのことです‥母に右目がよく見えないんだけれどもと言ってきたらしい。
左目ははっきりと見えるのに右目はモヤのかかったような形で新聞の文字も識別できない位…どうしてなのと聞いたらしい…その時になって母は出生日のことが蘇り色々とその時の状況を思いおこしてみるといくつか思い当たる節があった。当日は朝方だったため、ベテランの常勤医師が不在で経験の浅い医師が担当したと言う事、3530グラムの大きな赤ちゃんだったので出生が大変だったと言う事、取り出すときに鉗子分娩を使わざるを得なかったと言う事、そして鉗子分娩が右目に入り目が真っ赤になり炎症を起こしていたと言う事、それがどうやら視力が正常に出ない主な原因であるらしいとのことであった…
その後近くの眼科医院に母と2人で行ったことを覚えている。眼科医はこういった。この右目を正常な状態に戻すには角膜移植しかありません。ただし現状は角膜移植を待っている方が多くすんなりとすぐに角膜移植ができるわけではありません。あなたはまだ右目にも視力があるので状況のひどい人が優先になりますのですぐには移植を受けられないでしょう‥
将来自動車免許も取れるしこのままの状態で生活して行くこともできます。ほとんど左目だけで生活することになり疲れ目の頻度は人よりも多くあると思いますが、早くに老眼になったりとかそういったことも気をつけていれば大丈夫かと思います。正常な左目を大切に生活してください。とのことであった。
眼科医院は1カ所だけでなく何年かに分けて地元の病院が中心であったが母と2人で行ったのを覚えている。
普通の人とは明らかに自分はハンディがあるんだ。普通の人よりも身体的に明らかに生まれた時から劣っている部分を持っているんだ。そう認識したときには幼いながらかなりショックであったし何度も母親を責め立てたのを覚えている。特に小学校の低学年あたりは断続的に私が目が見えないハンデのことを言うので母は本当に辛かったと思う。これからの長い人生、人が普通にできることがかなり制限されてしまう…目に関してこれ以上見えなくなってしまったらどうしよう。毎日毎日不安でいっぱいであった。
そして思い出したように母にその不満を言うのだ‥母はいつも本当に申し訳ないといった顔で私を見つめ何も言わずにうんうんと聞いてくれていた‥
ただしこの件に関しては小学校高学年位から母に対して不満を一切言わなくなった…それは今でも鮮明に覚えてる1つの大きな出来事ががあったからだ。
それは小学校3年生か4年生のことだったと思う…家の茶の間で例によって思い出したように私が母に自分の目は一生戻らないんだ、どうしてみんなと同じように産んでくれなかったのかなどと不満を言い始めた…その時はかなり長時間しつこく言ったような気がする。母はいつものようにうんうんと頷いて聞いてくれていたが本当に困ってしまったようであった。そして私にこう言ったのだ。「隆一、もしあなたが本当にその目を直したければ角膜移植しかない、私はお前が望むならば、私の右目をお前にあげてもいいよ」そんな ことをしたら母が右目を失うことになる。そんなことはできない。まさかそんなこと母が言ってくるとは思ってもみなかった。この世の中に自分の身を削ってまで、私のことを想ってくれる人がいる。自分を犠牲にしてまで、私のことを尊重してくれる人がいる…そう思った時にもうこれ以上このことを言うのはやめようと思った。言っても仕方のないことだし、母を苦しめるだけだと言うことがわかったからだ‥
その後の人生で目が人より見えないことで日常生活上苦労した事は数え切れないほどある。学校での視力検査の時に心ない教師からなんでそんなに目が悪いのとかこんな字も見えないのかとか言われた事はずっと覚えている。
左目だけで生活していると負担がかかり人よりも速い速度で極度の近眼になってしまった…右目は新聞や教科書の文字がメガネをしても強いコンタクトをしても読めない位の視力であった。
目がひどい悪いことで友人や周りの人から馬鹿にされたくは無い…自分の目の事はごく1部の人以外は公に言わないようにした。
大学生の頃あたりからコンタクトレンズが流行するようになり自分の手の届く値段で購入できるようになった…その時も母に相談した…母の答えは1つであった…お前は左目が頼りだ。その左目に異質なものを常時入れておくべきではない…たとえ見栄えが悪くてもメガネで通しなさい🥸
就職した24歳頃、同期の人たちはみんなコンタクトレンズをつけて颯爽としていて羨ましかったが、
月日経った今、そのコンタクトレンズをつけていた人たちのほとんどが私よりも早く皆老眼になり、細かい文字が裸眼でも見えにくい、夕方5時以降は仕事にならない位目が疲れると言っている…
私は相変わらず目は疲れるのだが老眼にもなっていないしメガネを外せば小さい文字もはっきり見ることがまだできている‥左目は相変わらず極度の近視で右目は相変わらずの状態ですが…現状維持といったところでしょうか?(テレビをあまり長時間見ないようにするとか目薬を避けるとか夜10時以降はスクリーンを見ないようにするとかいろいろ節制した結果でもあるのです)
先日母から電話がかかってきて周りの友達もしているから白内障の手術をしようと思うんだがどう思うと相談を受けた。目はまだはっきり見えるんだけど…と言う母に私はこう言った。
それなら手術はしてはいけないよ…あなたは昔に私に異質なレンズを体の中に長い期間入れてはいけないと言ったでしょまだよく見えてるんならそのような事はしないで…と
でもまだまだ母には恩返しをしきれていない…母が私にくれたあの時の言葉は私が生きる上で心の支えになってずっとずっと生き続けている。きっとこれからもずっと…