コペンハーゲンの思い出/2
はっ!
私は跳ねるように顔をあげた。
体をまさぐる。
服は着ていた。
スマートフォンもパスポートも、バッグもきちんとある。
私は、向かいの席を見た。
ダルマツィオはいなかった。
いったい奴はどこに……。
扉の開いた音にそちらを見ると、ダルマツィオが喫煙室に入ってきたところだった。
トイレに行っていたらしい。
奴は、はー、やれやれと首を横に振りながら、椅子に腰を下ろし、テーブルの上に置いてあった私のタバコの箱から一本とって口にくわえた。「案の定だな……」しゅぼっ、とタバコの先に火をつけるダルマツィオ。
全身から汗がじんわりとにじみ出る。
案の定?
どういうことだ?
私は、また、何か?「私は、一体……、今は何時だ?」
ダルマツィオは上等なイタリア製の腕時計に目を向けた。「お前がぶっ倒れてからちょうど4時間と8分だな」
「ぶっ倒れた?」
「テーブルにヘッドロックかましてガッシャーンって感じだ。どれもこれも割れちゃいなかったがな」
「私は、どうして、意識を失っている間、何かしてたか? 何かしたか?」
「は? いや、何にも。ただ、酔っ払って潰れたのが案の定だなって思っただけだ。予想を裏切らないっていうのがお前の良いところだな」
私は震える手でタバコを一本取り、口にくわえ、火をつけた。
ビールのグラスは綺麗さっぱり片付けられている。
床に視線を這わせ、革靴で床を擦るも、ガラスの破片のようなものには当たらなかった。
私はタバコを吸い終えると、灰皿に落とした。
店を出ると、辺りは真っ暗だった。
現地のサラリーマンたちが、右へ左へ右往左往。
店を出てすぐの場所にはメトロの入り口があり、幸せそうな千鳥足の酔っ払いたちはそちらへ吸い込まれて行った。
この時間のメトロはさぞ酒臭いことだろう。
「次はどこいこっか〜」
「まーだ飲むのかよ……」
「まだナンパ勝負してないもんっ」
「俺を言いなりにさせたいときだけ可愛い声出すのやめてくんねーかな。思わず押し倒してやりたくなる。お前みたいな酔っ払い相手じゃ、ナンパもオスメスの勝負も決着は目に見えてるってもんだぜ」
「やってみないとわからない」
「今日は寝ろ。また明日にしよう」
「んでダルマツィオはホテルに行くってわけか」
ダルマツィオは頷いた。「お前はどうする? お前さえ良ければベッドを貸してやるけど。俺はソファで寝るし床で寝たって良い」
私は呻き声を上げながら手を振った。親切心からだということはわかっていたが、そういった紳士的な扱いを受けるのは嫌いだった。「ちぇっ、私は良いよ。昨日と同じく空港で眠ることにする朝になったらまた迎えにきてくれないか?」
ダルマツィオは舌打ちをした。「そんならほら、ホステルにでも泊まれ」そう言って渡してくれたのは、デンマーククローネの紙幣が数枚。
私は彼に礼を言った。「せっかく来てくれたのに、悪かったな」
「ほんとだぜ。これから1人で飲み直しだ」ダルマツィオは笑った。「んじゃ、また明日」
「おう」
私は、ダルマツィオと別れて、メトロの駅に向かった。
階段を降りた先では、普段は知的でインテリな雰囲気を纏う北欧の人たちの醜態だった。
メトロは5分おきにやってくる。
長い長いトンネルを抜け、空港へ。
先日のセブンイレブンに向かい、タバコを選ぶ。「デンマークのタバコを買いたいんだが」
店員は昨日とは別の人だった。北欧美女。背は私よりも高く、顔はごつい。好みじゃなかった。軍人上がりだろうか。肩幅までごつい。「何にする?」
「オススメは?」
「それなら、プリンスはどう?」
「それにする。一番重いやつ」
「重い?」
「ニコチン」
女性はタバコの箱を隅から隅まで眺め、首を傾げた。「ちょっとわからないわね。自分で確かめて」
彼女は、棚にある全ての種類のプリンスを私の前に並べた。
私はタバコの箱を隅から隅まで見たが、なるほど、彼女のいう通り、ニコチンやタールの表記がどこにもない。
あるのは、タバコの銘柄と、タバコを吸うとこうなるかも、という写真と注意書きだけ。
私は、白いパッケージのプリンスを選ぶことにした。
その箱の写真が一番怖くなかったからだ。
他にも、コーヒーとリンゴを買う。
どれもこれも日本より高い。
「まいど」
「どーも」私は今朝、夜明け前にタバコを吸った場所で、再びタバコを吸うことにした。
空は相変わらず満天の星が輝いている。
私は、タバコを吸う前に深呼吸をした。
空気が美味しい。
冷めないうちにコーヒーを啜る。
ただのコンビニのコーヒーだが、場所が違うと、吸う空気が違うと、こうも美味しくなるのかと感心した。
私はタバコを吸おうと思ったが、考えを改め、コンビニに入り、カールスバーグを買うことにした。
日本でも飲める銘柄だが、空輸の手間と時間を省いたカールスバーグは果たして同じ味なのだろうかと気になったのだ。
あるいは、日本で飲むものは日本人向けに味の調整がなされていて、現地のカールスバーグはまた違った味わいが楽しめるのではないかと。
星空の下、澄み切った空気を味わいながら口にするカールスバーグはまた格別だったが、これと言った味の違いは感じられなかった。
私はようやくタバコを吸った。
プリンス。
重たい煙が、強靭なバイキングの肺にもしっかりと染み込みそうだった。
香りもまた一風変わっていて良い。
タバコの細かい味の違いはわからなかった。
フレーバーがついていればまた話も違ったのだろうが、そうでないならゴロワーズのような黒タバコかそうでないかの違いくらいしかわからない。
わかるのはちょっと違うな、お、新しい香り、それくらいだ。
それでも、このプリンスはうまかった。
私は、星空を見上げながら、タバコを吸い、ビールをすすり、時折、思い出に心を傾けながら、時間を過ごした。
若い頃、私は何になりたかったのか。
自分は今、何がしたい?
私は首を傾げた。
私はタバコを吸い終え、屋内に戻ると、ビールをもう一本買い、iPad miniを取り出し、文章を打ち込みはじめた。
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