飯豊町一家三人殺傷事件の講演録を読んで

飯豊町一家三人殺傷事件公判傍聴記・2009年1月15日その1(被告人・伊藤嘉信)|相馬獄長 (note.com)

飯豊町一家三人殺傷事件公判傍聴記・2009年1月15日その2(被告人・伊藤嘉信)|相馬獄長 (note.com)

飯豊町一家三人殺傷事件公判傍聴記・2012年7月17日(被告人:伊藤嘉信)|相馬獄長 (note.com)


飯豊町一家三人殺傷事件の、殺人未遂の被害者であるCの講演録を読んだ。2024年3月14日に警視庁で行われた、犯罪被害者等施策講演会である。
一読して思ったことは、余りにも都合のよく語られた内容ではないか、ということであった。「被害者」Aの母親であるCは、Aによる性的虐待、それによる被告人のPTSDという、最低限の事実さえも、未だに認めていない。そして、裁判の経緯などの説明には、余りにも大きなずれがあった。
以下、疑問を感じた部分を書いていく。

「犯行動機が何一つ立証されず、少年期の遊びの中での出来事とされたため、大々的に報道された事件でした」
冒頭に語られたこの言葉は、事実に反している。
弁護人の精神鑑定、及び検察官の精神鑑定で、被告人のPTSDは立証されている。そして、検察官の精神鑑定で、「被害者」Aによる、被告人に対する凄惨な性的虐待の事実が確認された。「被害者」Aが、被告人に行った行為は、フェラチオを強要して精液を飲ませる、肛門を舐めさせる、足を舐めさせる、肛門に射精する、という行為である。れっきとした性犯罪であり、これを遊びというのは、さすがに神経を疑わざるを得ない。連続児童不同意性交犯の長田凪巧は、卑劣な犯行を行ったものだが、口腔性交にとどまっている。Aの行った性犯罪は、突出して悪質な性犯罪者よりも、さらに悪質な態様である。

「都民センターの面談時、マスコミについて話をしてくださり、マスコミに対して被害者、
加害者、中立であるべきことを、弁護士の先生を通して申出してもらいましたが、変化は
なかったように思います」
山形新聞では、判決などの節目では、遺族のコメントや会見、手記が大々的に報じられた。遺族に発言の機会は十分に与えられた。他方、被告人の発言は、被告人質問の断片的な報道がなされただけである。少なくとも、山形新聞は、十分と言っていいほど中立であった。朝日、読売の地方版も同様である。少なくとも、被告人べったりではなかった。中立、時と場合によっては、被害者寄りだったと言えるかもしれない。そうしたマスコミにまで、このようなことを言うのでは、被害者にとって不利な事実を報道することを、禁じようとしているとしか思えない。

「刑事裁判については、犯行動機について何1つ証拠もなく、立証されないまま、加害者
側の一方的な言い分や供述で展開されていると思えた裁判」
被告人の言い分を十分に精査するために、弁護人の精神鑑定ののちに、わざわざ検察官の精神鑑定実施が採用されたのである。これは、あまりにもひどい言いがかりではないか。精神鑑定は立派な証拠であり、被告人寄りではない検察官の精神鑑定で立証された事柄は、なおさら確かな証拠である。また、性的虐待の補強証拠として、被告人の両親の被告人の自傷行為についての証言と、「被害者」Aの長じてからの性犯罪、という出来事がある。山形地裁の判決文によれば、Aは、2001年5月に強制わいせつ事件を起こし、8月に執行猶予の判決を得ている。自分の息子が、性犯罪で有罪となっていることを、どう考えているのであろうか。

「自分たち(註:被告側)が描いたストーリーに従って進行され、あれよあれよという間に判決が出てしまったと思います」
控訴審は、5年数か月もかかった。検察官の精神鑑定に、2年数か月かけている。そして、弁護人側の精神鑑定で出た心神耗弱という結論を採用せず、検察官の精神鑑定で出た完全責任能力という結論を採用した。むしろ、検察官の主張に沿って審理が行われたようにすら思えた。
また、被告人の弁護人は、Aの卑劣な性犯罪を非難することなく、被告人の苦痛を訴えるのみであった。トーンが弱過ぎるのでは、と思えるほど、抑制的な弁護方針であった。

「加害者が国で守られ、被害者の人権は無視されたような裁判でした」
傍聴した限りでは、むしろ、被告人にとってセカンドレイプのような裁判であった。
控訴審の検察官は、「性犯罪被害を長期間にわたって恨むのは、反社会性人格障害だからである」「人はいじめ、いじめられて大きくなる」などと、妄言としか言えない冒頭弁論を行った。質問姿勢も、異様に威圧的、抑圧的であった。また、被告人質問では、悪夢のような性犯罪被害を、詳細に答えざるを得なかった。被告人の苦しそうな様子を、忘れることはできない。裁判所は、検察官の威圧的な質問に注意することも、被告人の性被害を思い出す苦痛に配慮することもなかった。
どこが、加害者が守られているのだろうか。

「加害者の両親からは、我が子が重大な犯罪を起こしていながら、謝罪の言葉はありませんでした。証言台に立った両親は、裁判長の質問に対し、弁護士の先生から謝罪するなと止められていたからと答えていました」
Aは、性犯罪により、被告人の人生を壊した。被告人はフラッシュバックに悩まされ、自傷行為を行い、自殺を企図した。本来であれば、Aの側が法の裁きを受け、生涯にわたり謝罪し、賠償を行わねばならない立場であった。人生を壊した人間に謝罪し、賠償金を支払う。屈辱的かつグロテスクな風景である。被告人や、その両親の胸中に、複雑なものが去来したとしても、私は責める気にはならない。
また、賠償については、被告人の両親は借家住まいになり、家を売って支払おうとしていた。交渉を進めていたが受け取ってもらえなかった、と控訴審で話が出ている。

講演を重ねているとのことだが、このような事実に反する、都合の良い内容ばかりを触れ回っているのであろうか。講演に際しては「被害者」Aの性犯罪とそれによるPTSDが犯行原因であること、「被害者」Aが長じてから性犯罪で有罪判決を受けている事、それらもきちんと説明すべきではないのか。

最近では、「加害者の権利ばかり守られている」「裁判が加害者中心に進んでいる」と言った言説が盛んに聞かれる。しかし、これは事実を反映しているというより、単に遺族や被害者の望む結果とならなかった、と言っているだけと考えた方がいいのではないか。伊藤嘉信の裁判では、前述のとおり、裁判において、被告人の苦痛は配慮されていなかった。また、PTSDが認められた以外は、被告人にとって不利な認定ばかりがされたように思える。どこが被告人の権利ばかりが守られ、加害者中心なのであろうか。

「私にとって終わりはないのです」というのが、講演会のタイトルである。しかし、被告人である伊藤嘉信にとっても、性犯罪被害に終わりはない。控訴審公判の時点でもいまだに苦しんでおり、治療など受けられていなかった。服役中も、治療を受けることができず、苦しみは続いているのではないか。
その終わりのない苦痛を作ったのは、Aである。


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相馬獄長
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