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入れ替わった死刑判決~封印されし冤罪事件・大蒲原村強盗殺人事件~・その2

(4)予審


*予審請求


樋口忠次、大塚惣吉、畑石蔵、丸山久次郎、安中庄五郎の五名は、2月2日に予審を請求された。
予審とは、戦前の旧刑事訴訟法時代に行われていた制度である。公判前に予審判事が必要な事項を取り調べ、被告を公判に付するべきか否かを決定する手続きである。原則として、検察官から請求を受けた事件について行われた。
検察官の起訴事実は、以下の通りである。平仮名、現代仮名遣いに直して記載する。

被告人 樋口忠次、畑石蔵、丸山久次郎、大塚惣吉、安中庄五郎
犯罪事実
被告人忠次、石蔵、久次郎、惣吉、及び庄五郎は共謀して、明治40年1月19日の夜、中蒲原郡大蒲原村役場内に、各凶器を携帯して押入り、宿直員たる同村役場書記Y・Y、及び小使F・Tの熟睡せるに乗じ、これを殺害したる後、該役場内に在る金庫を破壊し、在中の金円を奪取せんとしたるも、堅牢にして其目的を遂げざりし事実。

当時の起訴状には、犯行時の役割や共謀状況について、詳細に記さないことになっていたのだろうか?それならば、検察官にとって幸いだったであろう。捜査時の供述や証拠では、到底、犯行時の役割や共謀状況について記載することはできなかったであろうから。しかし、凶器が発見されていないため、「各凶器を携帯して」と書かざるをえなくなっている。また、犯行の具体的時間も特定できていない。

*予審尋問その1


2月2日、樋口忠次への第一回予審尋問が行われた。以下のように供述した。
『一月に、大塚惣吉より金借の周旋を頼まれた。O・Yより聞けば、同人も惣吉より二百円借入の周旋を頼まれ、その貸主は寺田村のKなることを聞いて居った。1月18日山崎病院に於いて惣吉より、二百円の借り入れが出来た時には、私にも其中の十円を貸して遣るということを聞いた。其日山崎病院には、惣吉、庄五郎、石蔵が来り、私も一緒に酒を飲んだ。其処へO・Yが金主のKを連れてきたが、私共が酒を飲んでいるので、取引は明日にするということになって、そのままに分かれた』
『私は惣吉より十円を借る約束であるから、19日にも病院へ行った、私が家を出んとする處へ、惣吉より酒一升と肴を持参せよと、通知があったから、酒を買った處へ、妻の父丸山久次郎が来り、指輪の事で惣吉方へ行くとのことにて、同人が油揚げと「コンニャク」を持て来ることになった。私が病院へ行ったのは、午後一時か二時頃であったが、久次郎は私より一時間位遅れて病院に来た、病院にて惣吉は酒を飲んで居ったが、其処で私の外に久次郎、石蔵等の四名が共に酒を飲んだ』
その他、杉藪の中で石蔵と村役場へ強盗に押し入る相談をしたこと、帰路役場へ立ち寄ったこと、F・Tを呼んだが返事はなかったこと、石蔵との約束に反し犯行に加わらなかったこと、翌朝惣吉宅へ行く途中に役場に立ち寄り戸を叩いたこと、返事がなかったこと、役場の表門に怪しき三様の足跡があった事、惣吉と石蔵の行動、1月24日石蔵が口止めを行ったこと、1月28日に石蔵が来て惣吉からの手紙を隠匿するよう言ったこと、等については、捜査時の供述と同趣旨を述べたとのことである。

2月3日には、大塚惣吉の第一回予審尋問が行われた。そこで、惣吉は他の被告たちに疑いを向けさせるような供述を行った。
問・其方は刑事巡査の取調に対して、石蔵の挙動が疑わしいと密告したと云うがそうか
答・役場の殺人事件が新聞に出た当時、家内にこれを読み聞かせたる處、石蔵はその詳細なる話を聞き、餘り左様の事を申すと警察に知れると悪いと言いますから、そんな譯があるものかと告げ置きました。
 1月24日25日頃から同人は頗る狼狽し居る様子で、風の音にも驚き、人の出入りに心を注ぎ顔色常ならず、挙動より見て、家族一同石蔵を疑っているのみならず、同人は嘗て其妻を鉈で傷付け、其父は親殺の大罪を犯した者でありますから、大に同人を疑ふて居りました。
問・それ程疑って居る石蔵を1月28日に忠次方に遣わして書類を隠せと言わせたのは何故か。
答・隠せと云うて遣ったのではありませぬ、取りまとめて置けば宜かろうと親切に云うて遣ったものです。
『安中庄五郎は、1月19日午前10時ごろに一度、12時に一度参りました。私は玄関にて面会しました、同人は二十円を貸せと云うて来たのですが、外に色々の用事のある様子なりしも、人が来て居った故遠慮して居った様子なり、彼は馬喰業にて常に詐欺の手段にのみ頭を突き込んで居る男ですが、19日に来た様子から考えると、詐欺ではなく、一度にうんと儲かる仕事の相談にでも来たらしく見えましたが、人が来ているので只二十円貸してくれと云う話をして帰ったのである』
『私方には大小二挺づつ都合四挺の魚包丁があり、16、7日頃には確かにあったものが、20日頃来客時に、使用せんとしたるに大形の分が一挺見えませなんだ』
問・其方は大蒲原村役場の殺害事件は石蔵の所為とは思わずや。
答・私は安中庄五郎、畑石蔵、樋口忠次、丸山久次郎、N某の所為と思います、時間は夜12時過より1時半頃迄の間にして、役場付近の粟島神社内にて、一同衣類を脱ぎ、下着一枚となり、手拭にて捩り鉢巻きを為し、忠次は庄五郎を迎え来りたるものと思います。
 私はSより、久次郎が仕込杖を所持せることを聞いたから、凶器は其仕込杖に刀及び、私方より取出したる包丁等であろうと思います。
 久次郎は見張りを為し、石蔵は久次郎の仕込杖を持ち、忠次は刀、庄五郎が出刃包丁を携帯し、役場の表入口より押入り、石蔵、忠次、N某はY・Yにかかり、庄五郎はF・Tに掛かりたるものと思います。石蔵は足袋を履き居りたるも、N某は素足と思います。
 凶行後凶器其他血痕附着のものの中、細かき物は庄五郎の糞溜に、大なる物は田中の八幡の水溜に隠し置き、衣類は河にて洗いたるものと思う。
 忠次に貸した六角提灯の血痕は、石蔵の衣類の血が附きたるものであろう。
 犯行後一同忠次方に集り、取った七十銭の金にて、忠次の妻に酒を買わせて飲みたるものと思われます。別段根拠なきも私の想像であります。
 役場内に在りたる糞は、庄五郎が粗食をするから、同人のしたものと思う。

被告人の想像を録取したところで、どのような意味があるのか。また、このような想像を述べねばならない状況は、どのようなものであったのか。しかし、惣吉本人も想像と述べているこの予審供述は、検事に大いなる感銘を与えたようである。
この惣吉の予審供述から、当時の検察の杜撰さと思い込みを物語るエピソードが出来した。
話は前後するが、2月4日に、N・Iという石工の男性が予審請求された。大塚の予審調書に出てきた者と思われる。予審請求をされたのは、大塚の予審における断片的、自白とはとても言えない発言が、原因であったようだ。このN某を、N・Iを即断し、聴取や弁明を聞くことなく、被告人五名とともに強盗殺人を犯したとして、2月4日に第一回尋問を行い、即日同人を拘留した。
N・Iは、1906年11月18日から1907年2月5日まで、中浦原郡川内村(大蒲原村までは四里半の距離がある)に滞在し、1月19日に大蒲原村に旅行したことはない、と申し立てた。N・Iの滞在先であった証人も、「N・Iは他所へ旅行したことはない」と、それに沿う供述をした。検察官は、N・Iの弁明を破るための資料は何もなかった。そして、N・Iは免訴となった。つまり、起訴は不当であり、公判にかけられることはない、という事である。
しかし、検察官(主任検事ではないようである)は、『N・Iは、被告忠次、惣吉、石蔵、久次郎、庄五郎の五名と共に、強盗殺人を犯したる、共犯なるをもって、同被告事件を重罪公判に付せられるべきものなり』との意見を予審判事に送っている。
碌な根拠もなく有罪に固執する検察官の態度には、驚かざるを得ない。田中昌太郎は、「検事が主任検事に代わって意見書を作成するにあたり、一件記録を閲覧せずして、徒に有罪意見を付した」と推測しているが、それならば、それはそれで杜撰なことである。

話を予審の流れへと戻す。
2月3日には、樋口忠次の妻による予審供述が行われた。
・庄五郎は度々私方へ参り、市日には行き返り共に寄っていく。
・石蔵宅は私方の前である。
・1月18日には庄五郎に会ったことはない。F・Tの葬式の日には来た。
・19日の夜忠次は、大塚方より10時ごろに帰り、飯も食わずに寝た。
この、F・Tの葬式に行かず忠次の家に行ったことが、後に庄五郎にとって大きな意味を持ってくる。
2月3日には、証人であるO・K、O・T、S・T、O・Yが聴取されているが、省略されている。
2月4日には、惣吉の父が聴取された。
・昨年3月3日には、貰った魚包丁が一本、焼き直したものが一本、小が二本あった。現在大が一本しかないのは、如何なる訳か私には分からない。
と供述した。

同じく2月4日に、畑石蔵の第一回予審尋問が行われた。
問・本年1月19日の夜、大蒲原村役場へ強盗に押入りたる事ありや。
答・左様の覚えはありませぬ。
問・其方は樋口忠次に其相談をしたことはないか。
答・私は村役場に押入りました。
問・誰々にて押入ったか。
答・大塚惣吉、久次郎、安中庄五郎、樋口忠次とであります。
問・何時其相談をしたのか。
答・相談はしませぬ、夢の様に強盗に行きましたと云えと、惣吉が云いましたから申しました。強盗などに這入った覚はありませぬ。
『1月19日の夜、惣吉から山崎病院に金主が来るが、自分は酔って行けぬから、同院へ行って断ってきてくれと頼まれて、同所へ行った。其処に久次郎と忠次が居って、惣吉方へ行くのだと云って、私に付て来たのであります』
『杉林の中で強盗の相談など出来るものではありませぬ、私は病院から杉林を通りて惣吉方へ通ずる路へ出て、七十間ばかりの所へ来ると、S・Iが火をくれというて参り、忠次等は私の後よりS・Iと四人にて惣吉方へ行ったのであります。私は決して其様な相談をしたものではありませぬ』
『第八号、第十号の衣類の血痕は、1月5日に買受けたる兎の血が附きたものである』
『1月24日に、忠次方前を通った時、同人に呼込まれて同家へ行った、私が忠次を呼び出したのではありませぬ、其時忠次より提灯と惣吉宛ての手紙を預りて帰った』
『同月28日にも、忠次方へ行った、惣吉より忠次に遣った手紙を悉皆仕舞って置く様に云ってくれと頼まれて行った、何の為か分りませぬ』
この時、石蔵は一部鑑定と矛盾する答弁を行っている。第十号、石蔵所有のシャツに付着していたのは、人血であると鑑定結果が出ている。嘘をついたのか、それとも、勘違いをしたのか。嘘をついたとしても、その原因は、犯人である以外にも考えられる。
また、気にかかるのは、一瞬犯行を認めた場面である。この場面の様子が分かる記録はない。また、その理由について、「夢の様に強盗に行きましたと云えと、惣吉が云いましたから申しました」と述べている。どういう意味なのか。予審判事が深く突っ込んで聞いた形跡はない。

*予審尋問その2


2月5日には、丸山久次郎への第一回予審尋問が行われた。
『1月19日に忠次に頼まれ「コンニャク」と油揚を持って山崎病院へ行った、其処には忠次と惣吉が酒を飲んで居ったから、私も仲間となり飲んで居った、二時間計りすると、惣吉の子供が来り、惣吉に帰ろうと云うから、同人は子供を抱いて帰って行った。其跡へ石蔵が来り、惣吉が忠次と久次郎を呼んで来いと云うから、一緒に行けと云うに依り、三人にて惣吉方へ行くことにしたのである』
『杉藪と竹藪のある所を通っていったが、忠次と石蔵は足早に、私より三間ばかり先に行きながら、何等か話をして居ったが、何の話か分かりませなんだ。惣吉方へ行くと、同人は寝て居ったが、私等に向かい、今夜は縁起が悪く話が出来ぬと云うから、私等は帰ることにした』
『安中庄五郎は至って良くなき人物にて、金銭貸借中土地売買に托して、人の金を使い込みたり、又気荒な男である云々』
石蔵の予審調書に出てきたS・Iの存在が、出てきていない。食い違っているのか、それとも、内容が省かれたのか。

同じく、2月5日には、安中庄五郎への第一回予審尋問が行われた。そして、大審院判決の記載によれば、その予審においては、異様な光景が見られた。
予審尋問は森予審判事により行われたのだが、その際、取り調べに当たった小野澤検事が、予審判事の許可を得て、同席していたのである。また、安中を連行した下村警部も、予審に同席していた。それだけではない。森予審判事は、小野澤検事と共に、「共犯であることは疑いない、素直に話した方がむしろ利益になる」旨の慫慂を、安中に対し行ったようである。これは、1907年11月29日、小野澤検事により提出された記録の内容を判決中に引用している。予審判事の職務は、起訴が不当か否かを監視するものであり、いわば検察の監視役である。森予審判事の態度は予断に満ちており、到底、公平な態度とはいえないものだ。また、検察を補完するような言動を行っており、予審判事として独立して職務を行っているとは言えない。
また、果たして、他の被告人たちの尋問では、検察官や警察の同席は見られたのであろうか?予審判事は、中立な立場から、尋問を行ったのであろうか?
小野澤検事は、記録中で安中の予審中の様子を『その動作、頗る良心の刺激に堪えざるものの如く不安の状態なり』と記している。しかし、安中は果たして、「良心の刺激に耐えざる」状態だったのだろうか。
この際、安中は自白を行っている。二十問をもっていったん尋問が打ち切られた後、さらに森予審判事は尋問を行った。
問・尋問はこれで済んだのであるが尚好く考えて見て有体の事実を申し立ててはどうだ。
答・熟考致します
被告は熟考せり
問・どうだ
答・誠に申し訳がありませぬ事実を申し上げます。
 そして、以下のように犯行を自白したようである。
・1月19日午後8時ごろ、F方より帰り寝ていると、裏の私の寝間の戸をたたく者がいた。忠次であった。「金ができるところがあるから、すぐに来い」と言った。T方道中にて忠次は突然「今夜役場に入って金をとろう」と言った。驚いていると、忠次は「自分の申出に応じなければ殺してしまう」と言った。
・やむなく同人について役場付近の明神の森に行くと、畑石蔵もそこにいて、同人も共に役場に入れと言った。私が躊躇しているのを見て、タカネという石切用のもので、「役場の中に入らなくてもいい、我々についてこい、もし無断でこの場を去ると殺してしまう」と云うので、忠次と石蔵について役場そばの招魂碑の傍までいった。
・両人は役場の表門より役場内に入り、大塚惣吉、丸山久次郎らしき者と共に、忠次と共に表入口を叩き、石蔵が先に立って役場内に入った。
・5分か10分たつと、金庫でも開ける音と思われるトントン、コンコンという音がした。
・暫くたつと、私が明神の森にいるところへ、忠次と石蔵が来て、私と共に村松の方へ行った。両人は、「今夜は駄目であったから、又儲けさせてやろう」と言っていた。私は自宅へ曲がる道の所で両人と別れた。
『実は19日に、惣吉から金を借り受けんと思い、同人方に参り雇人O・Yに、惣吉の在否を尋ねたるに、不在だと云うことで面会を得ませなんだ』
『役場に這入るとき、忠次は何も持っていなかったようです。同人の服装は平生来ている綿入の下に白地のシャツを着て足袋を穿ち、下駄をはいて居ったが、役場には足袋せん足で這入った』
『惣吉は其時外套の帽子を被り、尻を端折って居った』
『久次郎と思われる人も、帽子を冠って居った。着物は黒色の様であった』
『招魂碑の傍に立って居った時には、其処を誰も通らなんだ、其処で見張をする様に云われたのである』
『石蔵は役場より出てきて、金庫が開かんで駄目だと云ったのである云々』
この自白に対して、予審判事は、その真実性を補強すべく尋問を行っていなかった。

それから半月ほど経過した2月21日、丸山久次郎方の間借り人である芸妓K・Yへの予審尋問が行われた。
・1月19日夜に久次郎が帰って来たのは、12時半より1時頃かと思う。
・同宿人が、久次郎が帰宅した後に帰ってきたため、そう思う。
2月26日には、村役場書記のF・Tへの尋問が行われた。どこから賊が押し入ったと思われるか、盗まれた金品について尋問を行った。
また、貸座敷業者のH・Kの予審尋問が行われた。
・大塚惣吉に17円の貸しがあり、1月16日に催促に行くと、其処には畑石蔵、樋口忠次がいた。
・惣吉は「目下大きな目論見があって、それが成功すれば、御前方の借金は直に返すから両三日待て」と云った。忠次は、「この旦那の目論見は千や二千を設ける如きでないから、気を大にして待てよ」と云った。
・私は、「戸主でないのにどうしてそんな目論見ができるか」と訊くと、惣吉は「親の印を盗めばできる」と云った。私は、惣吉は開墾でもする気か、と考えた。
S・Yという男性の予審尋問も行われた。
・1月19日夜、8時から9時の間に、丸山久次郎他一名とすれ違った。場所は県道で、役場と村松町の間。久次郎の連れの男が六角提灯を持っていた。それから久次郎らは村松町の方に向かった。
F・Nという男性の予審尋問が行われた。
・1月19日夜9時40分頃に、役場付近の路上で丸山久次郎と男性一名にすれ違った。久次郎の連れは頭巾のついた廻し合羽を着て、六角提灯を持っていた。また、F・Nが役場前を通った時は、表入口の傍の部屋に燈火が見えたが、話し声はしなかった。
そして、樋口忠次の妻の第二回予審尋問が行われた。
・1月19日夜、忠次が帰宅したのは10時ごろ。丸山久次郎や畑石蔵と一緒に来たことはなかった。
・帰宅後に、自分が飯を出し、忠次が膳を食べたことはない。
2月27日、安中庄五郎の母の予審尋問が行われた。
・1月19日夜、庄五郎は夜8時頃に帰宅し、すぐに奥の部屋で寝た。夜間遅く庄五郎を訪ねてきた者はいない。
それならば、庄五郎にはアリバイが成立するかもしれないが、そのあたりはどう考えたのだろうか。

同じころ、岡上鍬太郎による鑑定書が予審に提出された。
・押収第七号、忠次所有単位筒袖の汚点は人体血液なり。
・押収第十号、石蔵所有シャツの汚点は人体血液なり。
・押収第八、三十、三一号の汚点は血液に非ず。
という内容であった。

*予審尋問その3


3月2日、樋口忠次の第二回予審尋問が行われた。
『杉藪にて石蔵より相談を受けたと云う、前回の申立は其通り相違ありませぬ、只役場へ這入って金を取ると云ったか、何処へ這入ると云ったかは分かりませぬ云々』
『其後石蔵が来て、どうして来なかったかと云うから、客があって行かれなかったと答えて置いた、又石蔵より惣吉の手紙を残らず、他所へ預けて置けと云われたに相違なし云々』

3月15日には、貸座敷業者S・Kの予審尋問が行われた。
・1月19日夜、丸山久次郎方にいる芸妓を尋ねて行った。家を出たのは20日午前1時過ぎで、私方から久次郎方までは、五十間くらい離れている。
・其時久次郎は自宅にいたが、「今在に行って帰ったばかりだから、少し暖まってから、見舞ってやろう」と云った。今帰ったばかりの様子で、帯を解いて炬燵に入っていた。

久次郎の第二回予審尋問値は、同じく3月15日に行われた。
『惣吉、良次(註:忠次の誤記か)等と共に、税金の集まって居る、大神原村役場に強盗に這入ろうという、相談は夢にもありませぬ』
『当夜私が帰宅した處へS・Kが、抱え芸者Kを訪ねて来たに相違ありませぬ、私は今帰った計りだと云いました』
『惣吉方より自分方へは、3,40分の時間にて帰られるのである。当夜惣吉方を出て、何処へも寄らずに帰宅したのであるから、一時頃に帰宅したことはありませぬ。若し左様のことを云った者があれば、其人の云うことが間違って居るのであります』
帰宅時間について、S・Kの証言と、真っ向から対立する。

同じく3月15日、石蔵の予審尋問が行われた。
『押第十号証の「シャツ」は昨年三月より、七月迄着て居ったが、その後は着ないのである、それに血液が着いて居る様のことはありませぬ』

 同3月15日、予審判事は庄五郎にも予審尋問を行った。
『私は忠次に呼ばれて、役場に這入ったことも、往ったこともありませぬ』
『前回忠魂碑の側に立っていたなど、どう致しまして左様の事を云うた覚はありませぬ、当夜6時頃F方へ行き、8時頃帰宅して何処へも出ませぬ』
『私は役場へ這入る様なことは致しませぬ、貧乏はして居っても、人を殺して金を取る様のことは致しませぬ』

同3月15日、惣吉への第三回予審尋問が行われた。
『私の借金の支払位は、親族の者が立派に始末をしてくれます、私は渇しても盗泉の水は飲みませぬ、村内でも慈善家と云われて居る私ですから、決して盗みなどは致しませぬ』
『私が他の者と共に、強盗の為に、役場へ這入ったと、庄五郎が云えば、同人は夢でも見て左様のことを云うのでしょう、私は其晩私宅に寝て居って何処へも行きませぬ』

3月23日、新潟県巡査の菅井為之助への予審尋問が行われた。
・殺人事件の当夜、山崎病院に、惣吉、忠次、久次郎等が集合したことを探知し、1月28日午前10時ごろ、惣吉宅で惣吉に対し、畑石蔵は当夜内に居ったかと尋ねたが、惣吉は「当夜在宅していて11時に寝た」と云っていた。
・惣吉に着衣の点を訪ねると、同人は30分ばかり他出して、久次郎、忠次等の着衣の模様を紙に書いて持ってきた。
・警察で忠次の身体検査を行った時、着衣に血痕を発見し、これを追及したが、同人は泣声を出して、非常に残念であるという様子だった。

また、警察は、1907年4月4日、潜水夫を使用し、五部一川、牧川などの水底を捜査した。しかし、凶器は発見できなかった。

*予審終結


 そして、4月5日、予審は終結した。
樋口忠次、大塚惣吉、畑石蔵、丸山久次郎、安中庄五郎の五人は、公判に付されることになった。起訴事実と如何に異なっているか示すため、記録に引用された全文を掲載する。

主文
忠次、惣吉、石蔵、久次郎、庄五郎に対する強盗殺人被告事件を当庁重罪公判に付す右決定に対し其送達ありたる日より三日内に抗告を申し立てることを得。
N・Iに対する強盗殺人被告事件を免訴す
理由
被告惣吉、忠次、石蔵、久次郎、庄五郎は大蒲原村役場に於て明治三九年度第四期田租四千餘円を徴収したるを聞き之を強奪せんことを共謀し明治四十年一月十九日午後十一時過各自に仕込杖出刃包丁刀鉄棒等の凶器を携帯して役場表玄関の締りを外して押入りまず宿直員役場書記Y・Y、F・Tが熟睡せるに乗じてこれを殺害したる後該役場内にある収入役保管の金庫を破壊せんとしたるも戸扉堅牢にして之を開く能わざるより収入役机の抽斗に収めありたる収入印紙郵便切手の売溜金六十銭ばかりを強取し逃走したるものなり。
(中略)
被告N・Iに対する強盗殺人被告事件は証憑不十分に付云々主文の如く決定す
明治四十年四月五日

また、東北日報によれば、このほかに、惣吉、石蔵、忠次、そして農民F・Tが、詐欺取材事件で予審決定を受けた。この件については、なぜか記録では徹底的に言及されていない。以下に記事を引用する。

惣吉は酒色に耽り、素行修まらず昨年九月十八日村松町(略)料理店品川屋にて農民F・T、石蔵、忠次等と会飲したる際その費用支払いに窮したる餘り各被告は農民F・Tを惣吉の小作人に仮装しその小作米を売却すると偽りK・Tなる者より金銭を騙取せんことを共謀し同月十月九日農民F・Tは石蔵と共にK・T方へ赴き同人は惣吉の小作人にして十一俵の入付を作り居れりと偽り石蔵も傍らより確かに惣吉の小作人たることを保証する旨申し欺きK・Tをして其小作米十俵を四十円五十銭にて買い受くると承諾せしめ農民F・TよりK・Tに宛、玄米十俵、同年十一月二十五日限り引渡す旨の売渡証を差入れ右証書を引換えに四十円五十銭を騙取したるものなり

*疑問


注目すべきは、検事への求意見も予審決定と同じ4月5日に行われていることである。予審が終結する際には、検事に対する求意見が行われ、検事意見書が提出され、予審終結決定書が出される、という流れとなる。わずか一日で、検事への求意見が行われ、検事は意見書を出し、予審判事は予審決定を行ったということになる。求意見までの記録の枚数は574枚。予審請求以後でも400枚。果たして、検事も予審判事も、この大部の記録を精査したのであろうか?この点も、被告たちの有罪を疑わぬ田中昌太郎でさえ、疑問を呈している点である。
 また、検察官の意見書の日付は、当初は4月13日とされていたが、後に4月5日へと訂正されている。杜撰な取り扱いとしか言えない。

 予審判事の態度も、疑問を持たざるを得ない点がある。第一には、小頃の予審に見られたような、予審に警察検察の同席を許し、被告人を中立な態度から尋問するのではなく、犯人視しこれを追及するような態度であったことである。
 また、予審判事は予審請求のあった後、現場の検証を行っていない。通常は、予審判事も現場の検証を行うものである。そのため、予審においては、一つも現場に関する質問が行われたことがないようである。この点については、田中昌太郎も疑問を呈している所である。

 予審決定では、被告たちの使用した凶器、犯行時間が具体的となった。しかし、その根拠は薄弱である。凶器については、惣吉の第一回予審尋問を基にしていると考えられるが、曖昧模糊とした話でしかない。犯行時間帯については、被告たちが犯行可能と思われる時間に調整し、これを認定したと思われる。
しかし、樋口忠次の妻と、安中庄五郎の母親の尋問内容を信用するのであれば、忠次と庄五郎は午後11時には帰宅、就寝しており犯行は不可能である。身内の証言と云うことで、これを頭から信用しなかったとしか思えない。
また、庄五郎の、夜8時過ぎに忠次が家に訪ねて来たという供述は、庄五郎の母の「誰も訪ねてこなかった」という供述に反する。これも、身内の証言であるがゆえに、頭から信用されなかったのであろうか。
石蔵も、惣吉から警官が聞き取ったところによれば、11時には惣吉宅で寝ていたとのことであったが、共犯の証言として信用されなかったのか。
被告側に有利な証言は、これを不当に無視されているようにも思える。
被告人たちに不利な証拠は
樋口忠次の第一回予審尋問調書、大塚惣吉の第一回予審尋問調書、畑石蔵の第一回予審尋問調書、安中庄五郎の第一回予審尋問調書、S・K予審尋問調書、他には、岡上鍬太郎の鑑定と、菅井為之助予審尋問調書ぐらいのものである。
田中昌太郎ですら、その内容が不十分であることを認めざるを得ないものであった。
このうち、忠次の予審尋問調書は、全く検事の聴取書と内容同一にして、聴取書を調書に改編したに過ぎない内容である。
惣吉の予審尋問調書は、自ら想像に過ぎないと述べており、内容も犯行後共犯者が忠次宅で飲食をしたなど客観的証拠と矛盾しており、事実でないことはあまりにも明白である。追及の激しさから、曖昧なことを述べたようにも思える。「私は渇しても盗泉の水は飲みませぬ」という言葉は、精一杯の抵抗だったのではないか。
石蔵の予審での供述は、役場に五人で押入ったと簡単に認めたにとどまり、しかもこれをすぐに否認している。自白として価値ある内容ではない。また、これも追及の激しさから、適当なことを述べたとも思える。
庄五郎の予審供述は、やや具体的である。しかし、前述の通り、忠次が8時過ぎに訪ねてきたという点は、庄五郎の母の予審供述に反しており、疑わしい内容でもある。予審判事が庄五郎の母の供述を疑うのであれば、これを覆す証拠収集をすべきであるのに、それがなされた形跡はない。仮に忠次が夜に訪ねて来たとして、「犯行を手伝え」と、庄五郎宅の何処で持ち掛けたのか?庄五郎の母の面前で持ち掛けたのか?その時、庄五郎の母親は、何処で何をしていたというのか?その点は追及されていないようである。そして、結局は第二回予審尋問で、庄五郎も否認へと転じている。
被告人四人の供述には、ほぼ具体的なものはなく、客観的な証言とも整合しない内容を含んでいる。また、忠次、惣吉も犯行への関与自体は一貫して否認している。
久次郎に至っては、犯行に結び付くことを一切供述していない。
S・Kの予審供述は、これを信じるのであれば、久次郎の帰宅時間は午前1時頃であり、犯行は可能であったことになる。また、何故久次郎が時間帯について異なった供述をしているか、という問題にもなる。なお、田中昌太郎は、この供述をもって忠次の帰宅時間も午後1時頃であったかのように言っているが、それは必ずしもそうは言えないのではないか。
物証はどうか?
凶器は何一つ発見されておらず、犯行時の着衣も発見されていない。また、処分した場所も不明である。指紋や足跡の照合も行われていない!ただ、忠次の服と、石蔵のシャツ、六角提灯に、誰のものか分からない微量の血痕が付着していた、というのにとどまる。
 しかし、仮に忠次たちが犯人であり、凶器や犯行に用いた着衣を処分したのであれば、微量の血痕が付着した衣類や六角提灯も処分しそうなものである。忠次は警察署に血の付いた衣服を着ていったらしいが、犯人がそんなことをするだろうか。また、犯行時に着用していたか、血痕の付着した手で着替えを行った場合、服やシャツに付着する血痕は、果たして微量で済むものであろうか。
 忠次は、警察署で血痕を発見された時に「残念だ」と泣いたそうであるがこれも様々な解釈が可能である。警察の追及があまりに激しく、脅えて泣いた可能性もある。
 結局、物証はないに等しい。惣吉、庄五郎、久次郎に至っては、物証は皆無である。
 あいまいな供述と、皆無に等しき物証でもって、予審判事は五人の被告人たちを公判にかけたのである。


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