サファリング・ザ・ナイトの感想を真面目に書いてみた
2017年3月中旬まで行われていた、劇団地下空港さんの「サファリング・ザ・ナイト(http://uga-web.com/sb/sb.cgi?eid=219)」に行った。移動参加型演劇ということだったが、友人たちの評判がよく(実際には鎹さやか嬢の出演を耳にしていたのが先)、行く選択肢しか思いつかなかった。ただ、チケット購入時点で2分岐&進行中の数分岐で物語の内容が変わるらしいが、千秋楽の1度しか行ける時間が取れず、悔やまれた。とりあえずタイタニアでチケットを購入し、1番チームだった。
ここから先、まず参加していないと分からない話ばかりになる。また、ネタバレを含む。ネタバレしていいのか分かりかねたので、一応ここで注意書きしておく。あと、取り留めのない小池節の文章(校正なし)なので超読みにくい。
前提の話
この感想の前提の話を少しだけ。従前の演劇は観るものだったが、最近は中に入るもの、介入できるものが沢山出てきたなぁという感想を私は持っている。参加者は傍観者だったが、介入者であり、登場人物の一人でもあるという演劇。今回のサファリング・ザ・ナイトも、行くにあたっては他の参加型演劇っぽいイベントを幾つか思い浮かべ、比較することを頭に入れながら観ていた。純粋に楽しむ心はあるんだが、なんとも職業病みたいなやつである(?)。
さぁ、話を感想に戻す。
私は演劇を含めて様々な芸術作品が好きである。また、参加者の没入感を作るイベント制作の手伝いをしている。そして、本職は人工知能に関する仕事をしている。ということで、勝手に「参加者として」「イベントシステムを考える者として」「人工知能を考える者として」の3つの視点から感想を考えていた。偉そうなことこの上ないのが恐縮である。なお、ここは小池という人間の独断と偏見で書かれた感想であるため、実際に脚本や演出が狙っていた意図を全く汲めないでいる可能性があることを十二分にご理解いただきたい。
参加者としての感想
楽しかったかと言われれば、“面白かった”と言うのが正しい。ただ笑って楽しめた作品と言うよりも、一個一個のシーンや状況を考えながら物語を紐解いていく感覚が面白かった。参加型という意味では始終物語に参加しているという感じではなかったが、物語世界にいる没入感は大きかったと思う。
そして面白かった理由が、他にももう一つ。違和感を味わうって事だった。特に、人類の歴史に関するレクチャーは興味深いものがあった。スライドを何枚か見せられるが、AI紛争による被害者の少なさを訴えるスライドでは、しれっと第三次世界大戦が起きている。その上、それが第二次世界大戦を上回る被害を出している。一体どこで何があったというのか・・・と考える頭に、オベロンの科学者のいう「AI紛争は劇的に被害者を減らした」という嬉々とした言葉が刺さる。空爆箇所のデジタルアーカイブを保存してから爆撃したとか、人間の複製を実現できているのだから人類が滅ぶことに不安がないとか、今を生きている我々から比べて"変"な考え方が、当たり前のように罷り通るように見えて通っていない違和感。でも何故それが違和感なのかは、今を生きているから説明できるのであって、没入している時代の感覚から言うと上手く説明できない面白さ。・・・実際に字面にして自分の考えてたこと書くと・・・この人、大概変人だな・・・私らしいんだけどね・・・。
イベントシステムの話
前述の通り、参加型演劇が増えたなという印象を個人的に持っているが、そうはいってもまだ演劇の枠に囚われがちだと考えている。本作は演劇の要素を強く残しながら、そこをうまく克服してきたなと思った。
ちなみに個人的に、スマホアプリとの連動は機種依存・電波の良し悪しで全く楽しめなくなるため、参加型演劇での利用を是としてない(非ともしていないけど)。そこ以外で。
参加型演劇はどうしても、参加者自身の現在の立場を理解してもらうために誰かしらの説明を挟まなければならない。謎解きで言えば、「それでは状況を整理してみましょう」というアレだ。アレそのものを説明口調で挟むのは、もはや演劇とは言えまい。そして作品として物語の厚みがある時、下手をすればその厚みのための下地も説明しなければならなくなる。その状況説明と下地を、本作は冒頭でお偉いさんからの言葉として聞いて「?」になっても、ある程度物語の進行中に飲み込める形になっていたと思う。というのが言いたい感想ではない。参加者は「何かの演劇」を強いられることなく物語を進めることができる点が良かったと思う。要するに、冒頭が「?」であることは全くかまわなず、移動先で見聞きするであろう様々は初めて知った体で進んでいくので、参加者の負担は(たぶん)少ないのだ。演劇の枠に囚われると、イメージ上では役者が舞台を降りて地続きで演技をしていることになっているが、実際は参加者が舞台に上がって、しかも物語を理解した行動を要求される感覚のものが多い気がしている。それで楽しめる参加者なら構わないが、演劇と称する以上は傍観者の立場で居たい参加者(観客)がいてもおかしくない。イベント発生的に行動を起こさなければならない瞬間は出てくるが(審査に)、ほとんど誰もが楽しめる参加型演劇になっているなぁという感想を持った。
加えて、これはチームによって異なると思うが、芸術作品を見てその感想を述べなければならない審査のあるチームだった私は、それこそ演劇の枠に囚われない参加者への最小限のアプローチで、物語の背景を理解させるという仕組みは面白いなと感じた。説明不足な点をただ説明するのではなく、ただ奔放に想像させるのでもなく、芸術作品を通じて理解させる・納得させる。そういえば芸術作品とは、作者自身の人生背景だけでなく時代の切り抜きのようなものなんだよなと、当たり前のことなのに再確認してしまった気がした。そこにあった芸術作品5点の説明を今でも良く憶えているが、やはり最後の作品に纏わる背景は、本作自体がAIと暮らす未来の考察として面白かった。その話はこの後でする。野田秀樹の2001人芝居に受けた印象と似てた。(にせんひとりしばい、ね。感想言う時に間違えて訂正できる雰囲気じゃなくて流した。恥ずかしい。)
人工知能に携わる人間としての感想
最後は・・・そこまで専門的なことを話したいのではなく、人工知能にフォーカスした感想。
最近、人工知能やロボット絡みの舞台が増えたかも、そして、思ったより「人工知能=ロボット」より「人工知能=人造人間」の捉え方が多いんだなと思ってたところで、本作はAIよりもIA(知能増幅:Intelligent Amplifier)としての人工知能の描写が多く感じ、おお2017年来てるーとか考えていた。物語の構造として、人工知能による征服をイメージさせながらIAであるから人間が声に出して人工知能に指示を送っており、結局誰か人間の強い支配欲が見え隠れするというのが良く出来ていた。
あ、私は人工知能を研究開発している立場ではなく、社会実装をして人間が人工知能と共存しようとする時に、どんな倫理観・法整備・社会的課題の克服が必要か考えるのが仕事である(専門家とまでいかないが・・・)。それで、本作はそういった点を言及するのが一つのテーマかなと捉えていた。人工知能のいる世界は豊かになった、人類も進歩した、経済活動も様変わりした。途中で会ったホームレスや実際にチームの案内人がその進歩の裏の闇について語る場面はあったが、倫理観の中心は人間ではなく人工知能の動きに合わせられていることは、先に述べた違和感のあたりからも察せられた。法律も社会のあり方も、人工知能主導で決定されている。しかし、オベロン側の人間もタイタニア側の人間も、今の社会を選択したのは自分たちだと言っている。なるほど、インフラを普段生活している私たちは意識しないが、インフラが整備済みか未整備かで社会の形は変わる。人工知能がインフラになると、人間が一方的に共存という言い方をしているだけで殆ど人工知能が世界を作ってしまっているなと、少し警戒した。
もう一つ警戒したのが、審査で見た芸術作品の一つ『新自画像』である。野田秀樹の2001人芝居では、テレビに映る情報と観ている自分の境界線が分からなくなるモニター中毒の患者を題材にしている。21世紀に対する野田氏の問題提起、といった評価の舞台である。そして『新自画像』は本作の子育て事情や教育事情の結果、自分と外界の境界線が分からなくなった作者の苦悩が表現されている。人工知能統制によって安定した仮想空間で何でもできるようになる、人間の認知機能を曲げてなんでもできるようになる、その結果がコレ、という提示としてはセンスがある感心すると同時に、架空の病気として扱うにはリアルすぎるとやたら印象に残った。
そして・・・正直、最後の選択はとても考えさせられた。システムとしては、その前後の得点制の部分も含めて「バラエティ番組みたいな参加方法だな」と率直に思ったが、そんな下らない考えを吹っ飛ばすくらいに、未来を人工知能に預けるか人間に預けるかの判断を自分の1票が関与してしまうと考えるとゾッとした。この点においては、とても物語に参加している感覚があった。人間は過ちを犯す、だからこのまま人間の手で世界を作り続けたら同じ過ちを繰り返し、あるいは新しい領域に進出したがためにバベル以上の罰=全滅を迎える可能性がある。しかしそんな人間にも、今までに築いていたモノ・・・マクロ的には文明、ミクロ的には愛情がある。これがもし普通の演劇だったら、脚本家の提示する未来で一つの物語が終わるので、それはそれで「そうなのかー」で終わるところがここまで悩まされると思わなかった。果たして、私は人工知能による支配を選んだ。理由は人工知能に支配されている限りは人工知能を意識しなるのが結末なので、人間の手元には平和しか見えなくなる。そのあたりの考え方は、マトリックス3部作全部見て、最後の虹のシーンを理解してもらえれば。結局、会場的には人間による未来が選択された。こうして主人公を除いて皆が大団円になった訳だが、実際にこういう未来の選び方が必要で、人工知能による支配を選択した人間がこの世界で生きていくことになったらどう思うのかなとはちょっと思った。
まとめ?
書いてみると、まとまっているのかまとまっていないのか分からない感想になってしまった。いや、まとまってないか。
とにかく、色々考えさせられる公演だった。オベロンとタイタニアでは社会システムの構造も人工知能に対する考え方も違うので、果たしてオベロン側スタートだとどんな話になっていたかは気になっている。また、移動参加型なので、チームによって会場内で出会える物語もそれぞれ違うようだった。
昨今は参加型演劇が多い。ただ、イベントの世界観のための演劇ではなく、参加もできるよ演劇としてみると、今年度で一番だったかもしれない。またこの先ちょこちょこ、参加者・・・観覧者自身が物語をある程度選択できるタイプの演劇が予定されている。きっと様々な没入感の作り方が出てくるだろう、楽しみだ。