君たちはどう生きるか は 「分からない」ままでいいんだと思う
先週、「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。
(逆張りしすぎて公開終了ギリギリを攻めすぎた、
KATーTUN加入待ったナシ)
結論から言うと、あの作品は「伝えたいことは何か」に着目して見ると作品としての価値が下がるなと思った。
「ダメなものはダメ」で結論づけた方がその言葉の価値が保たれるように、この作品も意味を見出したらつまらなくなってしまうのでは無いか、と感じた。
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今までのジブリ作品のオマージュのような描写は何度か見られたが、物語の繋がりは薄いように感じた。
エンドロールで流れた映像制作協力の欄に、ufotableの文字を見つけてなんだか納得してしまった。
ufotableは特に戦闘シーンの作画が物凄く繊細でそれはそれは何度観ても圧倒されてしまう。有名な作品でいえば「Fate」や「鬼滅の刃」等があげられる。
作中序盤の炎のシーンは多分彼らの協力の元制作されているはずだ。そこだけ異常な程に作画ヌルヌルで「これほんとにジブリなんか?さてはお前人狼か??」と軽率にジャッジメントを始めるところだった。危ない。
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多分監督は“伝えたい”よりも“自分がやりたいもの”を優先して全てを詰め込んだから、自分以外の誰かに見せたいという意思はそこまでないのでは?と感じた。
制作段階で監督の目の前に客の姿は無く、それ故に視聴者が置いてけぼりになるという現象が起きている気がする。
本来表現の世界は、必ず見る人や聴く人という受け手が存在して成り立つ世界だから「表現は自由だ!」という言葉に甘えて受け手を置き去りにしてはいけないみたいな風潮がある。
自分の向こう側にいる人達に寄り添えない表現というのは、時に「うるさい」しか残らなくなってしまう。
それに、作り手側が賞賛のみを求めて作品を生み出すのはとても悲しい。いつの間にか「伝えたい」が「賞賛されたい・認められたい」に変わり、方向性を見失っていくのはよくあること
ただ今回、そんなリスキーなことをしてでも監督は自身のやりたいことを詰め込んだのだろう。
この考察が当たっているならば、上映にあたり事前広告が無かったことにも納得がいく。
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この作品は「分からない」がある種正解で、物語とか意味なんてものは一旦置いておいて、映像作品として鑑賞しに来たという感覚で楽しんだ方がいいのかもな、と思った。
あくまでも考察なので、全てを分かった気になってはいけないし作品に対しての想いは監督だけのものなので上記のことは全て空想のものではあるけれども、映像作品とはなにか考えさせられた作品でした。
意外とみんな本当はこういう作品を作りたくてウズウズしているのかもしれない。
仕事の合間合間に思考を重ねて書き殴ったから色々文がおかしいけれど、伝えたいことをとりあえず詰め込んだ。
最後まで読んでくれてありがとう。
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