病気をアイデンティティにしない

 初めて投稿した記事に「病気の話はしない」みたいなことを書いておいて恐縮だが、僕は一生治らないであろう、しかも致死率が相当に高い大病を患っている。
 それは精神病で、もっと詳しく言うと双極性障害というものだ。もっとも、今は「双極症」と呼ぶのが一般的になったらしいが、なじみのある呼称で統一する。
 これがどういう病気かというのは調べればいくらでも出てくるので、いちいち説明はしないが、一言で述べるとハイな躁とローな鬱を延々と(死ぬまで)繰り返すのが特徴とされている。
 実際のところは薬物療法によって躁の方はほとんど抑えられているため、特に僕のようなⅡ型の患者は鬱状態の期間が圧倒的に長い。……といって油断していると、最悪のタイミングで躁が現れることもままあるので、全く不可解・不愉快な病気であるといって差し支えないだろう。
 それで、僕は10年ほど前に診断を受けて、障害者手帳と年金までもらって自他ともに認める精神障害者になったわけだけれど、最近思うことがある。それは、「病気をアイデンティティにしない」方がいい、ということだ。する必要はない、と換言してもいいかもしれない。
 よくメンタル系のエッセイで壮絶な半生を送った筆者が精神科で診察を受け、「私の生きづらさは私のせいじゃなかったんだ」的な感動を覚えるシーンが度々描かれているが、そんなに人間って単純なものかな、と不思議な印象を覚える。
 少なくとも僕自身は、何十年も悩まされてきた苦しみや症状が「〇〇障害」と名前がついただけで楽になることはなかった。ただ腑に落ちた、というのが最も正直な感想である。
 ところが、世の中には診断を受けるとそれを金科玉条の如く振りかざし、聞いてもいないのに自己紹介がてら、親しくもない他人に自身の病気の説明を延々と始める人もいる。
 例えば僕の昔の友人に、小さいころレイプされた過去を少しでも関係ができた相手には打ち明ける人がいた。もちろん初めて聞いた時には驚いたし、深く同情したものだが、今思うと彼の中でそれはアイデンティティの柱となっていたのだろう。
 他人と違う経験をした自分、更にそれが今の生きづらさに密接に絡みついているとすれば、それを話した時点で相手より優位に立つこと、関心を払ってもらうことは容易である。
 と、偉そうに分析してみたが、僕自身お金をもらって記事を書いていたころには、先のメンタル系のエッセイではないが「僕ってこんな壮絶な半生を送ったのです」みたいな連載を続け、ついには最終回まで書いてしまった。顔写真付きであんな文章をネットに公開できるのも、躁状態のなせるわざである。
 このように、病気をアイデンティティにしてしまうと本当にロクなことがない。というか、よく考えてみればこれは、あまり親しくない人に「私はガンです」と打ち明けられる状況に似ている。
 それを聞いたところでこちらはどうすることもできないし、何か自分の態度にガン患者への配慮に欠ける点があったのかと反省すらしてしまう。
 少し話が逸れるが、僕の今の職場に困った人(もう辞めたけど)がいて、みんなからの苦情を管理者に伝えられた時にこんなことを言ったらしい。
「私はADHDなので……」
 それを聞いた管理者は「そういうことは、〇〇さん(僕のこと)みたいにちゃんと病院に行って治療を受けて、相談員をつけてから言ってください」と返したそうだ。
 これ自体は笑い話だが、そういえば僕は職場で双極性障害の話などほとんどしたことがない。体調を崩したときに「鬱の波がきていまして」と、同僚に迷惑をかけそうな時だけ先んじて言うことにはしている。
 つまり、病気の話というのは利害を共有する他者に迷惑をかけそうな時、もっと言えば都合の悪い時だけ持ち出せばすむことなのだ。病気はあなたではないし、あなたは病気そのものではない。もう一度言うが、そこを取り違えるとロクなことにならない。

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