燃えろ、春
三秋縋という小説家に出会ってしまったことが、私の人生のひとつ、大きな分岐だった。
彼は、自分の人生の春と夏が既に終わってしまった、と言う。
であれば、私の夏を終わらせたのは確実に三秋縋である。
春は己で終わらせた自覚がある。春なんて、無かった。少なくとも私の記憶にある春は、暖かくなどなくて、ただ植物ばかりが芽吹いているくせに、朝と夜はまだ底冷えするような、卑怯な春である。
温まらないままに私の桜が終わった頃、私は三秋縋の文章に出会った。私が没頭するうち、気づけば、私が追い求めていたはずの夏が終わっていた。
追い求めていたと気づいたのは、失ってからだった。
私は夏が好きだったのだと、あのどうしようもない暑さと、太陽の眩しさと、プールの水の塩素臭さと冷たさと、坂道の陽炎と、シーブリーズの匂い。
あの人の自転車の荷台、上履きを脱ぎ捨てて滑った廊下、二階の窓からこっそり覗いた校庭と、あの日交わしたハイタッチ。
欲しかった。好きだった。でも、帰ってこない。
私が求めた夏は、セミが七日を渡る前に終わってしまった。
欲を言えば、責任をとっていただきたい。三秋縋には、一人の人間の夏を終わらせた責任がある。
しかし、これがこの先、あの人の文章が、この先、私の人生の秋と冬になるのならまあ、許してやらない、こともない。
あのようにモノクロの世界で生きやがって。
淡い色の中だけで、自分たちだけで完結しやがって。
ああ悔しい。桜のピンクが恋しい。
許せないので、夏を終わらせたいあなたに、是非。
『三日間の幸福』/三秋縋
人生に、二週目があったとしたら。
もう一度、無惨にも四季が巡るとしたら。
そのときは、どうかいっそあなたの文で、私の春を燃やすがいいさ。