春に死にたい。 ソメイヨシノが綺麗な場所がいい。 死んだら、遺灰は海に撒いてほしい。 誰にも見つからないように、バラバラにして。 お墓は海が見える場所がいい。 太陽が昇り、沈む水平線を独占したい。 私を燃やすとき、私が生きてきた証も、すべて燃えて尽きればいい。ただの灰になれば、私はきっと愚かで大嫌いな私を忘れられる。 一人で、ひっそり死にたい。 でも、死にたい理由は世界のすべてだ。 私の綴る文章はゴミだ。 死にたい人間の文章なんて、ゴミだ。 このnoteはただのゴミ溜め
大きい、生きていたくないぞという私の心の叫びが聞こえたような気がしましたが、気にせず、甘いものでも食べて、今日も己の安全な死に方を考えたいと思います。
自分の中の「当たり前」が、誰かにとってのそれではないことなんてとっくにわかりきっていたことで、 私の大切にしてきた「当たり前」が、顔も知らない誰か、或いは親しいはずの人間に踏みにじられて殺されていくようすを、私は人生で、あと幾度眺めて耐えればいいのでしょうか。 踏みにじられる側は、どうしていつも耐える側なんでしょうか。私、何か悪いことをしたでしょうか。特にしていないなら、私の大切にしてきた当たり前は、その人の気分ひとつで踏みにじられていいような、軽いものなのでしょうか。
三秋縋という小説家に出会ってしまったことが、私の人生のひとつ、大きな分岐だった。 彼は、自分の人生の春と夏が既に終わってしまった、と言う。 であれば、私の夏を終わらせたのは確実に三秋縋である。 春は己で終わらせた自覚がある。春なんて、無かった。少なくとも私の記憶にある春は、暖かくなどなくて、ただ植物ばかりが芽吹いているくせに、朝と夜はまだ底冷えするような、卑怯な春である。 温まらないままに私の桜が終わった頃、私は三秋縋の文章に出会った。私が没頭するうち、気づけば、私が追
あなたの文章と結婚したい、と、度々思う
ヒーローというのを私の人生からひとりだけ捻出するとすれば、そういうのは、アルバイトの最中に笑ってありがとうをくれたご婦人であったり、バカみたいに体調が悪い日にバスで席を譲ってくれた気の良いお兄さんであったり、そういう、少し話した他人が浮上する。 別に、親がヒーローでもいい。 友達をヒーローと呼んでもいい。 でも、こんな私にも一丁前に理想があって、ヒーローという存在にはどうしようもなく正義であってほしい。愚かで、己の振りかざす正義で傷つく人間がいることになんて気づかないよう
私は、怖くて聞いたことがないから、これから綴るのは全て妄想と偏見になるけれど、私以外の人間はきっと、生きる理由というやつを日々意識して生きてなんかいないと思う 私だって好きでそんなことを考えているわけではなくて、考えないとやっていられない。なんで生きてるんだろう、こじつけでもいいからそんな理由がないと、私は私の中で生まれ続ける劣等感で一秒後すら危うい、首に縄をかけるのだって、線路に舞い降りるのだって、赤信号で車道に飛び出すのだって、きっと一瞬、簡単じゃないかもしれないけど、
「なんで文才のあるひとが自ら命を絶ってしまうんだろう」という旨の嘆きをTwitterで見かけたけど、たぶん文才があるから自殺するんじゃなくて、自分が死にたくなるくらい苦しんでる理由を表現するために文章が必要だっただけだと思う。 言葉を選ばないとSOSを送れない。まるで詩や小説のような文章にしないと、自分が感じているのと限りなく近い色や温度で、その苦しみを伝えることができない。 ただ、死にたくなるくらい、自分の中身とだけ長い時間をかけて向き合ってきたから、他人に自分を伝えるこ