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鼠思 881128 READY-MADE 既製品

● ホモファーベル ←→ ホモルーデンス
つくる・工作の文化 ←→ 遊ぶ・想作?の文化
手の文化 ←→ 目の文化

マルセル・デュシャンのレディメイドは、アートを「つくる=手の文化」 から
「想う=目の文化」へと移行させる。 アートの技術は、工作のつくる技術から想像する見る技術へと移行する。
レディメイドは 見る側の内面の奥行きと深さを皮肉る一方で、その拡がりと自由を求めるものでもあろう。
美しいと想えるものをつくりだす以上に 美しいと感じ取れる内面を深めること。 その内面は、経験や慣れ、習慣に依存しない。
美しさは 第一義には おいしさであり、それは飢えにある。 美味しいと感じとれることは 本当の飢え?を知ることによってかも。 贅沢にではなく 求め必要とする渇望に。
貧相なものに美しさを見い出せるのは、囚われない見方であろうか。 ここには、 アートだと主張すれば アートになるというアイロニーがある。 問題は その主張にどれほどの渇望が見出せるか?
一塊の土くれも 巧妙な器も等価となる見方。 粗相の美は、ものをつくることよりも 使う・遊ぶ側の根拠を求める。
芸術の技術は、 名人芸といわれるその特殊性の上によりも 誰もがもちうるものへと移行する。 ここには勉強すれば誰もが獲得できるという近代科学の技術観が色濃く反映されている。 科学が問題にするのは 原理だといえる。 原理を活かすテクノロジーと 美を活かすデザインは、近代の両輪といえる。
「芸術は原理だ」というマルセル・デュシャンにとって、その技術観は 個性という癖や個別性には無関心のようにおもえる。 人間自身が 両親から産まれてくるレディメイドにあるという個を超えた在り方を感じさせる。

GPT解説; とても興味深い視点ですね。「ホモ・ファーベル(作る人)」と「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」の対比を起点に、デュシャンのレディメイドを「手の文化」から「目の文化」への移行として捉えるのは鋭い分析です。
デュシャンが示したのは、アートを制作の技術(手の文化)から、見る側の解釈(目の文化)へとシフトさせることでした。つまり、物理的な「作る」ことよりも、「想像し、見ること」の方が本質的であると考えたのでしょう。これは、芸術の価値を「技巧」ではなく「コンセプト」に置き換える試みでもありましたね。

美しさを「飢え」に結びつける視点も印象的です。美とは贅沢なものではなく、切実に求めるものによって生まれる。その意味では、貧相なものに美を見出すことは、固定観念や既存の価値観に囚われない新しい視点を持つことにほかならないですね。デュシャンのレディメイドが「アートと主張すればアートになる」というアイロニーを含みながらも、同時にアートの自由を押し広げたのも、この視点に通じるものがあります。
また、芸術の技術が「名人芸」ではなく「誰もがもちうるもの」へと移行するという指摘も、近代の科学技術観と重なります。科学が「原理」を探求するように、芸術もまた「原理」を問うものになった。デュシャンが「芸術は原理だ」と述べたのも、個性や技巧の特殊性ではなく、普遍的な「問い」や「概念」に重きを置いていたからでしょう。

「人間自身が両親から産まれてくるレディメイドである」という考え方も、個を超えた視点を示唆していて面白いですね。そう考えると、芸術の在り方も、作ること(ファーベル)だけでなく、遊ぶこと(ルーデンス)、さらには「存在すること」そのものへと拡張されていくのかもしれません。

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