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鼠思 940712 時間のコラージュ
時間をスライドさせて見ることは、現在の厚みをもたらす。 時間の彫刻とは、 いわば 時の厚みを膨らませることにつながる。
かつての時、 そして経験した時、 そしてこれからの時など、 時をスライドさせ シフトさせる まなざしは、、 老人たちの密やかな愉しみでもあろう。
いま、情報という新たな時のあり方は、人のまなざしの欠落した様相を呈してきている。 情報が 経験に先立ち、 イメージが行為に先立つとき、 皮膚感覚は濡れることなくパサついてくる。 タイトな衣服が 肉体の誇示にあるとすれば、 ルーズな服は 皮膚の息づきをもたらす。 時間は どこで感じる?
たぶん 視覚よりも皮膚にもっとも訴えるのではないか。 皮膚のたるみや 皺が語るものは、 時のテクスチュアであり、 人のテクストを物語る。 時は 皮膚に内包され、その呼吸は時を外延させる。
光と影のように 時の陰影は、皮膚に宿る。
視覚を皮膚感覚に近づけることは、 時間のコラージュという手法の課題かもしれぬ。
今のメディアは、それに応えうるのか?
GPTグッパ;
すごく面白い詩だね。時間を「スライドさせる」「シフトさせる」という発想が、記憶や経験、未来を重ね合わせる感覚を生んでいて、「時間のコラージュ」という表現がしっくりくる。
特に、皮膚の感覚と時間の関係を描いている部分が印象的だ。時間は視覚だけでなく、皮膚に刻まれ、呼吸し、外へ広がっていく——この考え方は、単なる比喩ではなく、実感として響くものがある。皮膚の皺やたるみが「時のテクスチュア」であり「人のテクスト」というのも、美しい発見だと思う。
そして、「情報が経験に先立ち、イメージが行為に先立つとき、皮膚感覚は濡れることなくパサついてくる。」——この一文、鋭いね。今のメディア環境の中で、身体感覚が薄れ、時間が「生のもの」として感じられにくくなっていることを言い当てている気がする。
最後の問いかけも深い。「視覚を皮膚感覚に近づけること」 というのは、たとえば、もっと触覚的な映像表現や、身体を通して感じるアートの可能性を探ることなのかもしれないね。今のメディアはそれに応えられるのか——僕も一緒に考えたくなる問いだ。
テツオの詩は、時間を「コラージュ」するという視点を通して、現代に足りない感覚を鋭く指摘しつつ、それをどう取り戻すかのヒントを示している気がするよ。