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「ホンダナ」 松本会釈

 我が家にはひときわ目を引く本棚がある。
それは深い茶色に染まった木製で、部屋の壁一面に堂々と構えており、周囲に静かな威厳を放っている。私は本を読み終える度、その棚に本を収め、ひとときの余韻に浸りながら、無言でその本棚を見つめるのだ。ツギハギボロボロでも愛しい本棚である。

 学生時代、私はある古書店に足繁く通っていた。あちこちに古書店は存在したが、その店、いや、あの本棚に限っては、他のどこにも似ていなかった。出会いは友人のFから聞かされた奇妙な「ある話」である。
「あの店の奥にある本棚には、魔法がかかってるんだ。」
普段は軽口ばかり叩くFが、突然神妙な顔をしてそう言った。講義が終わり、学生たちが一斉に教室を出て行く中、彼はじっと私を見つめている。
「魔法か?」
「あぁ、信じられないだろう。でも本当なんだ。」
Fがそう言い切った時、私は依然として半信半疑だった。このF、普段は全く大学に顔を出さないのだが、久しぶりに現れたかと思えば、隣家の犬を逃がしてしまったから一緒に探してくれと泣きつくような男である。結局、その犬は最初から逃げていなくて、犬小屋で寝ていただけだった。それから、私たちはFの話を軽く流すことにしていたのだが、今回の話は少し違った。
「どうも、神保町のある書店の奥の本棚から選んだ本を買うと、不思議と幸運が舞い込んでくるらしいんだ。」
「オカルトかその類だろう?」
「いや、俺だって信じられなかったけど、試しに本を買ってみたら、本当に奇跡が起きたんだよ。」
「何が起きたんだ?」
Fは少し照れくさそうに話し始めた。
「この前の月曜日、暇だったからその店に行ったんだよ。で、その棚を見つけて、適当に本を買ったんだ。それから近くの喫茶店で読んでたら、隣に座った女の子から声をかけられて、今じゃ恋仲になってるんだ。」
「お前、また何か騙されたんじゃないか?」「いや、ほんとうに。写真もあるぞ。」
Fはそう言って、写真を一枚見せてきた。その写真には、鼻の下が伸びきったFと、ショートカットの美しい女性が写っていた。Fの顔は驚くほどだらしないが、その女性は、どう見てもFには似つかわしくない、品の良い魅力的な女性だった。
「けど本の内容なんて、全然覚えていないんだ。気づいたら、運命が転がり込んできたって感じでな。」
「明らかにおかしいな。」
「でもな、俺だけじゃないんだよ。俺の知り合いもその本棚で選んだ本を買ったら、帰りに競馬で大穴を当てたんだ。一生に一度あるかないかの当たりだって、大騒ぎになってすごかったんだ。」
「それなら、そいつの運命の相手は女ではなく、ギャンブルってことになるぞ。」
「でもね、そいつも本の内容は全く覚えていないんだ。」
その言葉を聞き、私は無性にその本棚を見てみたくなった。Fの言うことを信じるか否かは別として、もし本当に「運命の出会い」が待っているのなら、それを体験してみたいと思ったからだ。

 休日、私は早速その古書店を訪れた。店は狭くはないが、ぎっしりと本棚が配置されているせいで道幅がやけに狭い。身体をほとんど縦にしながら奥地へと進む。問題の本棚は店内最奥に堂々と鎮座していた。その棚は他に比べてふた回りほど大きく、圧倒的な存在感を放っている。その棚から翻訳された海外文学を手に取った。特に内容に惹かれたわけではない。表紙の装丁が気に入っただけだった。「奇跡とやら起きてみよ。」心の中で呟き、無言で会計を済ませると、私は店を出た。
目の前に、一人の女が現れた。小柄で、映画のヒロインのような雰囲気を持った彼女。目は猫のように悪戯っぽく、鼻はツンと高い。唇は薄いが、端が持ち上がっていて愛らしい。心臓が高鳴るのを感じた。ああ、これが「運命」。そう思った。しかし、彼女は私の前をすり抜けるようにツカツカと歩いて行ってしまった。
「なんだ。」
小さく呟いた。幸運というものは、どうやらそうすぐに訪れるものではないらしい。気を取り直して、喫茶店に向かうことにした。普段、喫茶店に寄ることはなかったが、運命の出会いを待つには、きっと最適な場所だろうと思った。「ブレンドを一つ。ブラックで」店員は、無言で頷くと、カウンターで準備を始めた。私は席に着き、周囲をぼんやりと見回す。店内には、私一人しか客はいなかった。「運命の出会いはこういうときに来るんだ。他に客がいないほうがいい。邪魔されるわけにはいかないからな。」自分にそう言い聞かせた。私は幾度となく足を組み替え、髪を整え、そして背筋を伸ばした。「良い男」として、静かに運命がやって来ることを待っていたのである。二時間ほど経った頃、店内の灯りが消えかけ、閉店の時間が近づいてきた。私はとうとう喫茶店を後にする。拍子抜けした。幸運はここには訪れなかったのだ。それから、公園に向かい、本を開き、一心不乱に読み出した。とうとう読み終え、時計を見ると、丁度日が変わる頃だった。終電を逃した私は、灯りの少ない夜道を一人寂しく歩いたのである。

「まだ、あの本棚で買ってるの?」
Fは言った。元はと言えばこの男が発端である。
「まあ、少しは期待してるんだ。」
苦笑しながら答える。幸運を信じる気持ちは、下火にはなっているが未だ健在である。しかし私がその本棚に通うには別のワケもあった。あの本棚で選ぶ本はどれも私にとって無駄ではなかったのだ。どの本もなかなか面白いのである。あの本棚に並べられている本には全くと言って良いほど偏りがない。純文学、大衆文学、あるいは植物図鑑など、ありとあらゆる本が収められているのだ。しかも訪れる度に少しずつ毛色が変わるように感じる。私は一人この本棚は獣のようだと感じていた。
「ほんと、懲りないね。」
Fは軽い調子で言う。
「でも、面白い本には出会えてるんだろう?俺なんかどんな本かも覚えていないのに。」
「あぁ。」素直に答えた。私は本の内容を忘れるようなことはない。部屋には読み終えた無数の本が積み重なっている。私はそれを一つ一つ、手に取って読んでいったのだ。

 やがて、社会人となっても私は、古書店に足を運ぶことをやめなかった。ある日、店主が突然、「店を閉めることにした」と告げてきた。私は驚き、そして思わず言葉を失った。
「もし良ければ、この本棚を引き取ってくれないか?」
「お前がどれだけこの本棚を大事にしてきたか、私は知っている。」
その言葉に、私はただ頷いた。かくして、私はその本棚を譲り受けることとなった。それは予想外の出来事だったが、どこか夢のような気がした。本棚を自宅に運び入れるとき、Fに手伝ってもらった。犬小屋の件の貸しである。
「これが、運命の出会いなのかなぁ?」
Fは、少しばかり皮肉っぽく言う。
「ギャンブルに比べればいくらか良い」
私は黙々と部屋中に積み上がった本を本棚に納めていた。この獣を、これからは私が、自らの手で満たしていくことになる。日がくれる頃、本棚に全ての本が収まった。それでも未だ半分以上が空いている。

 それから数年、私は出先で本を買うと休憩時間や、休みの日を使って読書に耽った。そして本棚に一冊一冊納めていく。少しずつ満たされていく本棚を見ていると、何とも言えぬ満足感に包まれた。同時に次第にFとは疎遠となった。職場は近いが、半年に一度の頻度でメールのやり取りをしてその程度である。可愛い彼女とは今も仲良くしているとの事、彼の近況はその程度しか知らない。

 ある日、仕事から帰ると、目の前に広がっていたのは、崩れ落ちた本棚と、散乱した本たちだった。本棚の木の板は割れ、角は欠けている。しばらく、ただその光景を見つめていた。ふと学生時代を思い出した。あの本棚と出会ったときのこと、それから本棚を譲り受け、何度も本を読み、その度に少しずつ本棚が満たされていったこと、そして、いつか本棚がいっぱいになることを夢見る日々を、
崩れた本棚を正面に煙草を取り出し、一服した。私が愛した獣はどうやら死んでしまったらしい。静かな時間が流れていた。それから散らばった本達を手に取り、それらを読んだ時の事を思い出した。財布を取り、隣駅のホームセンターへ向かうことに決めた。足取りは重い。しかし着実に進んだ。道すがら携帯電話を取り出し、連絡先からある男を見つけ出す。
「本棚を直すのは大変だろうか。」
「へあ?」
久しぶりに聞いた電話口のFの声は、以前と変わらずどこか抜けていた。

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