二次創作if展開で救済された推しは本当に推しなのか
先日、初めてのノートを書いた。「二次創作を初めて公開した話」である。
万年拗らせオタクの心情忘備録だったが、思った以上の人に読んでもらえた。
正直なところ、とても嬉しい。
対人関係の不得手から人付き合いをほぼ諦めているが、やはり他人からの反応を貰えると心が浮き立つものなのである。
この場を借りて、反応をくださった方々にはお礼を言う。ありがとうございました。年末に向けて風邪を引かれないようご自愛ください。
さて、折角良い反応を貰えたのだから、しばらくは真面目な話でもしようかと思ったのだが、やはりやめようと思う。
人間は、ギャップに弱い生き物である。いわゆる「映画版ジャイアンいい奴現象」だ。ゲインロス効果などと呼ばれるらしい。
つまり第一印象で「変な奴だな」と思うよりも、「真面目な奴だと思っていたのに裏切られた」となる方が悪印象が強いのだ。初期ハードルは下げるに越したことはない。
もっと正確には、私が「好かれていると思っていた人から嫌われた」と落胆するのが辛いのだ。最初から「なんだこいつ」と思われている方がマシである。
初手であのようなものを書いておいて何を今更、とも思うが、以上の理由からしばらくは、癖を隠して無難ぶるのをやめようと思う。
一応物書きの端くれとして、うっかり手に取ってしまった人を傷付けないよう配慮はしたいが、あまり有益な情報は呟けないので了承して欲しい。
自分主体の文章を書くことに慣れていないので、ここを練習場にしたいと思っている。
随分と前置きが長くなった。
先に逃げ道を打たないと自分の話が出来ないのは、私の非常に悪い癖である。
その辺りも少しずつ改善できるといいと思う。
さて本題、今回は「二次創作のif展開によって救われたキャラは、本来のキャラとは別物なのではないか」ということについて考える。
そもそも二次創作の時点で別人だろ、という突っ込みは至極真っ当であるし、少しも異論はない。
しかし原作キャラ厨の二次創作者として、私は日々この葛藤と戦っている。
二次創作畑の人にとっては地雷の可能性があるので、不快に思ったらどうかブラウザバックして欲しい。
私の考えを正しいと押し付ける意図はさらさらない。人の数だけ二次創作の楽しみ方があると思っている。
まず再度の自己紹介となるが、私はアニメや小説やゲームの二次創作文章を書いている者である。
特に道中で死亡、もしくは破滅する、いわゆる「悪役」に心奪われることが多く、どうにかして彼らを救済できないものかと常に頭を悩ませている。
「救済」の定義も裾野が広いが、ここでは一旦「生き延びる」「破滅を逃れる」とする。
彼らを救済するために、私はしばしば「何らかの設定をもったオリジナルキャラクター(オリキャラ)」を創作する。
それを原作道中、もしくは過去に登場させ、その存在や行動によって推しに救われてもらう、といった長編小説を好んで書いている。
私はこれを夢小説だと思っているが、もしかすると「オリキャラ小説」などと呼んだ方が適しているのかもしれない。
少なくとも、微塵も自己投影など出来ない、設定マシマシのキャラクターであることがほとんどである。
悪役を救うためには大体の場合、綺麗事を言ってられないので、倫理観も捨ててもらっていることが多い。
先に言い訳をさせてもらうと、私は設定ゴリゴリの二次創作小説を書くが、原作の流れや登場キャラクター、世界観には出来る限り矛盾しないように苦心しているつもりである。
いかに原作を壊さず、作中で破滅する推しを救えるか。僅かに残された想像の余地にぬるりと入り込む、あったかもしれないその可能性を模索するのが楽しいのだ。
原作など知ったことか!と障害をぶち壊しながら進んでいくパワー系主人公も、読むのは好きだが、私には書けそうにない。
圧倒的光の者を産み出すには、私には経験と活力が足りないからだ。
少し話が逸れたが、本題の問いに立ち返る。
そんなオリキャラに「救われた」推しというのは、私が心酔する原作推しと同一なのだろうか。
答えは「否」だと私は思っている。
創作の推しは、原作推しと出来るだけ矛盾のないように書くが、しかし救済オリキャラが関わる時点で、やはり別の人物である。
仮に遺伝子的に同じ存在であっても、関わる人間や体験する出来事が変われば、それはきっと全くの別人である。
むしろそれを意識して二次創作を書いているまである。
原作に果てしなく近く、しかし仮想の「何か」と関わったことでほんの僅かに変わり、それが結果として救済に繋がって欲しいと思っている。
結局、原作推しは絶対に救われることはないのである。辛い。
速攻で結論はついたのだが、私が今回言いたいことは、もう少し先にある。
急に話が変わるが、私は長編二次創作の「後日談」というものをよく書く。
救われた後の推しがどのように生を送っていくのか、それを想像したくて書いている。
こうなるともう完全に、原作推しとは別の存在である。
そして、これも人によっては地雷だが、推しとオリキャラは何かしら愛情で繋がっていることが多い。
何故ならば、死や破滅に落ちるほどの悪役を掬い上げられるのは、やはり何らかの強い感情であり、それは「愛」であると思うからである。
はいごめんなさい格好つけました。嘘は吐いていませんが、推しが「愛」をどう扱うのかが見たいんです。
物語の主人公に敵対する程の、圧倒的な力やカリスマ性、暗い過去、崇高な理念なんかをもった悪役が、その娘だけは愛するのか、真っ直ぐな愛を向けられて戸惑うのか、はたまた少しも理解する気がないのか、性愛なのか情愛なのか親愛なのか、それが見たいんです。
滲み出る癖をグッと堪えて、もう一度本題に戻る。
私が創作をするのは、ひとえに推しが好きだからである。
しかし、救済された推しは、本来の推しとは異なる存在である。
ならば「私は一体、誰を見たくて書いているのだろうか」という気持ちにしばしばなる。
それならもういっそ、一次創作しろよ、と思った時期がある。
現代小説からファンタジーまで、一人で黙々と書いた。推しの癖が香るものが沢山生まれた。
いよいよ悩んだ時には一度ペンを置き、二次創作を頭から通して読むことが多い。
推しの姿形を模している。推しの魅力の片鱗を持っていて、何とか破滅を回避してくれた。それなりに幸せそうに生きていらっしゃる。良かった。苦労した甲斐があった。
推しとは似て比なる存在だが、私の癖には深く刺さる。自分で書いているのだから当然である。
どれだけ原作に矛盾のないように苦心しようと、やはり二次創作は妄想だと思う。
そして結局のところ、当たり前の話だが、自分の考えた最強の妄想が一番自分に刺さるのだ。
全編読み返して、新規供給が欲しくなる。
勿論自分で生み出すしかないので、黙々と書く。
そんなことを休み休みだが15年近く続けていると、余計に妄想の推しが脳内で固まってしまったように思う。
仕事で生成AIを扱っているので、色々書かせた時期もある。プロンプトにつらつらと癖を書き連ねて、何とか新たなものを生み出せないか試してみた。
でもやっぱり違うのだ。私の癖にぶっ刺さるものは結局私が書くしかないのである。
果たして私は「推しが好きだ」といえるのだろうか、と書きながらしばしば自問自答する。
どうにも理想を押し付けているだけのような気もしてくるので、定期的に原作をプレイしてニュートラルに戻すようにしている。
台詞は(そもそも全て書き出しているので)ほぼ覚えてしまった。脳内再生余裕である。登場シーンは全て別セーブデータを取ってある。
そして毎週必ず破滅する。辛い。救済が欲しくなる。エンドレス。
今のところ、毎回プレイのたびに格好良さに悶えているので大丈夫だと判断している。
これでもし、いや創作推しの方が、とか、解釈違い、とか思いだしたら、一度立ち止まって、場合によっては二次創作から手を引こうと思っている。
理想の妄想はあれど、私はやはり原作推しが一番なのだと言いたい。破滅するけど。本当に辛い。
話がとっ散らかってきた上に、主題から大きく逸れてきたので、そろそろ口を閉じることにする。
以上が、自分の中で推しを崇め過ぎて、俺の考える最強の妄想を作り出し、自分の癖を自分で供給するしかなくなった限界オタクの独り言である。
誰に話すものでもないので長年モヤモヤ思っていたが、言語化してみて良かったと思う。
年末宝くじは当たらなくていいから、自分がもう一人欲しい。最高に格好良い推しが幸せになる話を書いて、私に読ませて欲しい。供給を切に願う。