自分の人生を”生きる”ということ
初めまして
この記事をお読みになっていただいてありがとうございます。
改めましてDaisukeと申します。
この記事では自分自身の今までの経歴と今後やりたいこと及びなぜ取り組んでいきたいのか、どういう世界を目指しているのかを記載したいと思います。
自己紹介
1995年、福島県にて超未熟児にて誕生しました。
生まれた瞬間にNICU(新生児集中治療管理室)に移され見守られることとなります。
だからこそついた名前は”Daisuke”
大きく育ってほしいという親の願いからでした。
ただ生まれた後は背は小さいながら順調に成長しました。
(本当にこの頃は可愛かったらしい・・・)
生誕、そしてそつのないキャラへ
幼稚園卒業後、東京へ移住、祖父と二世帯住宅に移り住むことに。
小学校へ入学し勉強もスポーツもできる超優等生キャラになっていきました。
低学年時は水泳、テニス、山登りなど色々なことに手を付けましたが、ハマらず
小4から野球を始めることとなりました。
学級委員なども務め、
周りの期待に応えるそつのないタイプへなっていったのが小学校時代です。
中学は受験に成功し、早稲田実業へ入学することになりました。
ただなんと受かった方法は”繰り上がり合格”
要はビリで入学ということでした。
(これ実は家族以外初公表なのですが、
まずこの自分を受け入れてオープンにしていないあたり自分を愛せていないのがわかる)
中学受験の勉強がしんどすぎたため、「大学まで行けるし勉強はしない」と
心に決めて早実へ入学しました。
母が怖い
その中学受験など、幼少期から12歳まで育っていく上で私の中で重要な価値観を埋め込んだものとして「母が怖い」がありました(どストレートですみません)
もちろん今思えば”愛があってこそ”と感じる瞬間は多々ありますが、
当時は怖かった、本当に怖かったw
超絶理不尽な怒り方をするか、と言われたらそうではないのですが、
何かミスをしたとき、テストの点が悪かったときなどは
かなり叱られたため、自分の中で
「どうやったら叱られないだろうか?どうしたら怒られることを回避できるのか?」という思考が今後働いていくこととなりました。
早実に入って
早実に行きたかったのは、祖父が早稲田大学出身であったことと、
小学校の野球チームの先輩がハンカチ王子こと斎藤佑樹投手とともに全国制覇を成し遂げたのを間近で見たことから「ここへ入って野球がしたい!」と考えていたためです。
そのため、入学後は中学野球部へ入部かと思いきや迷うことに。
部活説明会で話をしていた部活の先輩が怖かった(平和主義な自分にとってチンピラにしか見えなかったw)ことと、おそらく自分があまり野球が上手くないことを理解していて、
自信がなかったのが背景です。
そんな中恩師である小学校の先生に相談に行ったところ、
「そうは言っても自分の気持ちは決まっているんだろ。頑張れ」と背中を押してもらい
野球部に入部することになりました。
意外と自分の実力以上のものがすぐに発揮でき、一年の秋には背番号を貰うなど、
結果を出していくことになっていきましたが走塁でミスして背番号を剥奪された記憶は
まだ新しいです。
自分の代になり怪我もしながらではありましたが、
最終的にはレギュラーポジティブを獲得し一定の活躍をしていました。
(中学もメンバーとして優勝したりしました)
また野球以外では、勉強はほぼせず。
「勉強して将来何に意味があるの?」とゴネていました。
入学後にすぐに彼女を作りますが、乗り換えたり、浮気されて嫉妬しまくったり・・・
すごくませていて割と彼女が途切れない中学生でした。。。
もしかすると親にも愛されない(これは勘違い)、自分を愛せないの二重苦で
彼女にエゴとして愛を求めてしまっていたのではと回顧しています。
(当時の彼女とは最近仲直りし、ハッピーです)
そんな中学時代を経て、
ここからが私の人生のターニングポイントです。
権威者の期待を”背負わない”ということ①
高校は満を持して甲子園を目指して野球部へ入部といきたいところでした、
挫折しました。
もちろん入部はしました。
ただいわゆる”いじめ”的なようなしごきが結構あり(今はないみたい)、
かつ自分自身の実力の無さを目の当たりにしてしまって3年後の控えで居続ける未来が
見えてしまいました。
当時奴隷のような扱いを受けることにも違和感がありましたし、2つ上のプロレベルの先輩(巨人の重信慎之介さんなど)と比較したら自分がミジンコレベルなのは最初から分かっていたのに何故か頑張ろうと思えませんでした。
さて、上記2つ理由を述べていましたが、どちらが本音でしょうか?
当時は活躍できる環境に移りたいのであると親を説得しましたが、今思えばただの嘘であることがわかるでしょう。
要は「怒られるのが怖い」のです。
母に怒られている幼少期がフラッシュバックするので、ただそれを避けて日常的には怒られにくい環境に行きたかった、ただそれだけだったのだと思います。
これも自分の中で最近気付くことができました。
「辞めたい」と口にしたとき、親には泣かれました。
「何でこの学校に入れたと思っている」「入った意味がないじゃない」散々言われました。
だがもう自分の心は動かず、親を強制的に説得し退部しました。
退部したのちには軟式野球部に入ることになりました。
高校軟式野球?というレベルの認知度の部活でありますし、
辛うじて高校野球なのに野球初心者も沢山いるような部活でした。
正直入るなんて全く思っていない部でありましたが辞めてまで入った部活です。
「絶対に硬式野球部で控えに甘んじている奴らよりは充実した生活を送ってやる」
と腹を決めていました。
ここからの自分のパフォーマンスは圧巻であったと思っています。
自分の学年では主将になると決めて、低学年時から学年を引っ張り
無事選手間投票にて主将の座を得ました。
そして33年ぶりの東京都大会優勝、関東3位など・・・
夏の全国大会には出ることができなかったので100%満足かと言われれば、否ではありますが、一定満足感の得られる結果を残すことができた大きな経験です。
硬式野球部を辞めた時はどん底でしたし、同期は甲子園に出場したので羨ましいと思う時ももちろんありました。
親など権威者の望む道ではなくても自分で決断することによって
道を切り拓いていくことによって最高の人生を送ることができると知ることができました。
これが”自分の人生を生きること”なのかと知ることができた最高の高校生活でした。
(キャプテンとしての1年間は本当に最高の時間でした)
ただそこからずっと自分軸で生きていけたかと言われると、そうでもなかったのがその後。
人生って難しい。(だから面白い)
無気力でずっと悩んでいた大学4年間
高校を卒業後は早稲田大学へ入学、
体育会の準硬式野球部に入部しました。
理由は祖父が体育会ラグビー部出身で全国制覇しているということもあり、
子どもが早稲田大学に入れなかった祖父の願いを叶えてあげようと思っていました。
(他人軸だし、今思えば自分のエゴ)
大学の4年間は非常に長く、もちろん努力もしていましたが
エネルギー値は高校時代とは比べ物にならない低さであったと
非常に後悔の残る過ごし方でした。
結果的に部活ではほとんど試合には出れず、一軍の試合で打ったヒットは1本のみという終わり方でした。
また本当にモテませんでした。
体育会だから出会いがないことを言い訳にずっとしており
サークルの友達に紹介してと依頼をし、付き合えても短期間で破局。
この他責っぷりを思い出すと本当に恥ずかしいのがこの時期。
ただこの時期にも色々と悩んだからこそ、今があるので
後悔はありますが、マイナスには捉えていません。
当然の如く上手く行かない就職活動
そんな人間が就職活動に挑んでも上手くいかないことは明白。
これもまた「体育会だからなんとかなるっしょ~」と言って謎の余裕を醸していた自分をぶん殴りたいくらい。
当時志望していたのは航空会社や鉄道会社でありましたが、
結果的には志望度は低い日本通運に内定を頂き入社することとなりました。
最後の意思決定時には上記企業と大阪ローカルの私鉄の2択となりました。
人生においてのほとんどが東京在住のため大阪ローカルの私鉄はプライベートという観点では非常に接点がないなかではありましたが、当時のやりたいことはど真ん中。
非常に悩む中、やはり自分では決められない弱いところが出てしまい、家族に相談し
母、弟が日本通運、父、妹が私鉄が良いと完全に分かれました。
そして結果的には日本通運へ。
今思うと一番の権威者であると思っている母の考えを呑んだだけだなと・・・
結果的には素晴らしい決断にはなりましたが、また母に従っているだけの
弱い自分が出て最終意思決定となりました。
ただ、何だかんだ誰もが知る大手日系企業に何の疑いもなく
あと40年働くのかと思い入社することになりました。
原体験となる1社目での経験
2018年3月に早稲田大学を卒業し、上記の企業へ無事入社しました。
手厚い新入社員を受け、無事現場へGW明けから配属となるわけですが、
ここからが衝撃。
目の死んだ大人ばっかり・・・・・
直感的に「やばいな」 そう感じました。
大学までは遠くても3つ上までしかいない環境であったが、会社は違いますし
そして揃いにそろってつまらなそうに仕事をしているのが衝撃でした。
解釈は人次第なので、
皆が皆同じ景色を見たところで上記の通り解釈するかというとそうではないと思いますが、
個人的には衝撃を受けることとなりました。
ただ少しずつ順応をしていきましたし、
”目の死んだ”大人とも上手いこと仕事できましたし、みんな非常に良い方たちでした。
また私自身、非常にエリートコースである部署が初期配属であり、
2年目から一人で国内出張など他の人が経験していないことを沢山させていただき
大きな期待もいただいていました。
ただ違和感は拭い去れないのが難しいところ。
「こういった人たちはどうやったら楽しく仕事できるのだろう?」
「こういった事を解決できる仕事はないのか?」
そう思いリサーチをしていたところ、
組織人事コンサルティングという仕事があるらしいというのを知りました。
部活の先輩にはコンサル業界に行った方などいなかったし、ゼミの先輩には何人かおられましたが、コンサルティングビジネスなんてよくわからないものだろと思っていたし、
自分みたいな頭が良くなくて、体育会の人間が行く場所ではないと決めつけていました。
(ここでも自分愛せない問題)
ただ実際の現場の課題を目の当たりにした私は興味津々になって
唯一募集をしていたリンクアンドモチベーションから内定を貰い入社することとなった。
ここが人生二度目のターニングポイント。
権威者の期待を”背負わない”ということ②
転職にあたっては親、祖父と揉めました。
父は終身雇用の企業で働くタイプではありませんでしたが、
1社目のネームバリューを捨てるのかとさすがに言ってきました。
しかも入社先が変なカタカナの企業(東証プライム企業ではあるが)
祖父も残念そうな顔をしていた形です。
ただ大学から社会人へとまた親の期待に応える自分だったのには嫌気が刺していましたし、
当時本気でまた取り組みたいことに出会えたのは高校時代と似ていたので迷うことは全く無く説得しきって、2020年5月に無事入社出来ました。
全く違う業界からの入社は「珍しいね」と言われましたし、
コロナ禍のリモート入社は非常に難しかった記憶です。
また全社で一番難易度の高いとされている大手企業向けの採用を支援する事業部へ
配属となりました。
そこからは一貫して現在まで3年半同事業に携わっている中で、採用というものの組織、会社における重要性は非常に感じる形ではありますし、自分が支援する企業の採用が成功して嬉しいことも沢山ありました。
ただ、1社目の時に感じた「目の死んでいる社会人を救えているのか?」については
答えは否、となるのではないでしょうか。
採用だけではなかなか難しいですし、企業側へ提供できるのは採用や研修、エンゲージメントの測定などに留まってしまいます。
また会社側からの機会提供というのはあくまでも「その企業にいる前提でのスキル提供やマインドセットなどのインプット」に過ぎません。
もちろん自己実現に繋がるケースもあるかもしれませんが、もっとフラットに個人ひとりひとりが幸せになるためにはもっと別のことがしたいと感じて、コーチングを学び、その事業を立ててご支援していこうと決断をしました。
なぜコーチングに取り組みたいのか?
上記にも記載をしましたが、企業側からのアプローチは本当の意味で
「働く個人に必要なもの」ではないからです。
私自身リンクアンドモチベーションで働く中で「企業で働くことの意味」に
ついてはとことん考えました。
色々な価値観をインプットし、色々な方に話を聞きブラッシュアップしましたが、
結論本質は今も昔も同じで「従業員は奴隷である」ということです。
資本主義社会化において、
資本家(経営者)は労働市場から労働資本をできるだけ安く買い、
商品市場に高く価値を売るというゲームをしているわけです。
ただ現在の日本社会においては奴隷制度はないわけなので、
金銭報酬はもちろんですが、”やりがい”という目に見えないものを付与して
働かせ続けているわけです。
労働者においても、自分の自己実現欲求が叶わずとも
ご飯が食べていけないという”不安”は解消することができるという点で
需要と供給がマッチするケースがあれば、企業に雇われ続けていくわけです。
ですので、企業側からするととてもドラスティックに考えると
労働者の自己実現なんてものは正直どうでもよいわけです。
直近の世の中は非常に”生きづらさ”や”息苦しさ”を感じる瞬間が多くなっています。
SNSの台頭により、周りの人の人生が輝いて見えて「自分なんて・・・」と相対化しやすくなってしまっているのが非常に難しいポイントです。
そして相変わらず日本の幸福度指数は低いままです。
(下記参照)
やはり自分はこの状況を変えたいと強く思います。
ずっと悩み続けていたことから現在好転してきているのもそうですし、
この課題感に1社目で気付き、2社目で先進的に考えてきたからこそ、
自分にできるものであると考えています。
私が提供できること
仕事、キャリア、恋愛、パートナーシップなど(その他なんでもOK)について、
話を聞かせてください。私のミッションはこちらです。
その中でのあなたのもやもやの言語化、進みたい方向に進めるためにお手伝いをします。
自分軸の人生を生きれるように全力でサポートします。
最後に
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
私自身は若干28歳ではありますが、この領域で一生生きていこうと決めています。
悩みを聞いてほしいという方も、世界観に共感しましたという方も
ぜひお話ししましょう。
間違いなく皆様にとって良いお時間を提供できるとお約束いたします。
もしご興味ある方は、
Contactページまで
ご連絡いただけますと幸いです。
皆様が自分自身の人生を生き切ることができますようにお祈りいたします。
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