「世界はほしいモノにあふれてる」という曲の成り立ちについて
わたしは天国であの子に会いたいんじゃない。
いま、ここで、生きている、あたたかいあの子の体を抱きしめたい。
テレビ番組の中で、東日本大震災でお子さんを亡くした母親がそう言っているのを見たと、妻から聞いたことがあります。この言葉は強く印象に残っています。そして、この言葉は、大切な人と死別した多くの人が、きっと同じように感じていることではないかと思っています。
この言葉は、その後もずっと、わたしの心の奥に深く沈んで、大切に保管されていました。
曲を作るきっかけの出来事
2020年7月18日、俳優の三浦春馬さんが亡くなったという報道を目にしました。
これまでにも、大勢の俳優やアーティストが亡くなったという報道がありましたが、この時ほどショックを受けたことはありませんでした。
わたしは彼と歌手のJUJUさんがが司会を務めていた番組、「世界はほしいモノにあふれてる」が大好きで、毎回の放送を楽しみにしていました。
司会の二人は、まるで本当の仲の良い姉弟のようでした。壊れた世界の中に残る美しいものを、大切に集めたような番組は、掛け値なしに宝箱のようでした。
もう、彼が、世界中の美しいもの、素晴らしいもの、美味しいもの、人間の気高さに、瞳を輝かせたり、涙を流したりする姿は見られないのだ。そのことが、今でも自分自身にとって意外なくらい、心にダメージを与えていました。
同時に、一視聴者がこれほどショックを受けたのであれば、彼の身近で一緒に番組を作っていた人たちは、どれほど辛いだろう、とも考えました。
彼の死から1週間ほど経って、何をするでもなくボーッとしていた時、この曲が自然と思い浮かびました。
どういうわけか知りませんが、まるで自分が番組のスタッフになったような気持ちで、言葉とメロディが自然と繋がって出てきました。
その後、細かな歌詞の修正は施しましたが、曲の8〜9割がたは、冒頭の歌詞とメロディを歌いはじめてから、30分ほどで固まったように記憶しています。
歌詞の成り立ちについての補足説明
この歌は、三浦春馬さんが亡くなったことが直接のきっかけで生まれましたし、タイトルもサビも番組の名前をそのままいただいています。
しかし、歌詞の中には「普遍的な気持ち」も盛り込みました。愛する人たちとの死別を経験した、わたしたち残された者の気持ちです。
冒頭で紹介した、震災でお子さんを亡くした母親の言葉も、歌詞には生かされています。
本当は、自分が書いた曲や歌詞を細かく解説するなんて、野暮にもほどがあるのですが、このたびはお許しください。
この曲の歌詞は、大切な人が亡くなったあとの、時間の流れに沿って展開します。
はじめは、その人のことをうまく思い出せない。時間が経って、笑えるように。その後、その人との思い出は、人生の苦しい時の支えとなる。最後に「もしも、君とこの場所で再び会えるとしたら」という切なる願いで、曲を結びました。
父とのこと
この歌詞には、いくらか父親が死んだ時のことも投影しているように思います。
わたしが10歳の時に、父は夜逃げ同然で、借金を残して、家を出て行きました。その父とは、彼が亡くなる1週間ほど前に、彼の入院先の病院で再会しました。
借金を残して、家族を捨てて出て行った父親でしたから、正直のところ色々と思うところもないではありませんでした。
しかし、ガンで余命が2週間を切った父は、骨と脂肪と皮だけの衰えた姿で、あとは死を待つだけ。その姿を見て「ああ、もう、全部許そう」と思いました。
この人は弱い人だったけれど、何も極悪人だったわけじゃない。こんなふうに苦しい思いをして、病院で誰からも看取られずにひとりで死ぬことを覚悟して、ここに寝ている。もう、この人を、これ以上罰するのはやめよう。
言葉にすれば、そういうことです。
このとき母親、つまり彼にとっては別れた妻も一緒に病院に行き、3人でしばらく話をしました。
別れ際に「次は俺の奥さんを連れて行くから、それまで頑張って生きててくれ」と言ったあと、わたしは父の手を強く握り、こう言いました。
「俺はあんたを許す。あんたは、もう、俺に対してひどいことをしたとか、悪かったと悔やむ必要はない。全部水に流す。そして、俺はあんたをひとりでは死なせない。あんたは24時間だけ、頑張って生きててくれ。24時間頑張ってくれたら、俺は日本のどこにいても、必ずあんたのところに駆けつけて、あんたの手を握ってやる。絶対にあんたをひとりでは死なせない。いいか、約束しろ」
父は少しばかり驚いた顔で全部聞いていましたが、最後の言葉を聞き終えるとゆっくりとうなずきました。そして両手を合わせて、今にも泣き出しそうな顔で、「ありがとう、ありがとう」と言いました。
結果から言えば、わたしは父の死に目には間に合わず、約束を破りました。
父との再会から数日後、深夜1時ごろに電話が鳴りました。父の病院からでした。
電話の向こうで病院の医師が、父は意識がなく助かる見込みはないこと、それでもいくらかの延命措置(開胸して直接心臓マッサージするなど)はできること、それによりわたしが病院に駆けつける時間を稼ぐ努力はできることなどを説明してくれました。
医師はこう言いました。
「あなたのお父さんは、あなたが帰ったあとで、わたしたち、病院の医師や看護師たちに、何度もこう言っていました。『先生、わたしには息子がいて、24時間頑張ったら、必ずここに来てくれるって約束してくれたんですよ。だからね、お願いがあるんです。わたしの心臓を、どんなことがあっても、息子が来るまで動かしててください。お願いします』。わたしは、できれば、お父さんのこの願いを叶えてあげたいと思います。だから、できる措置は、何でも全力でやってみます。どうなさいますか?」
わたしは医師に「先生、もう父には意識がありませんね」と尋ねました。医師は「はい」と返事をしました。
そして、わたしはこう言いました。
「このまま、父を静かに、安らかに、痛みも苦しみも感じないまま、死なせてやってください」
きっと父は、わたしが自分の元に向かっていると思いながら、意識を失い、そして亡くなったのだろうと思います。
この父に関して思うことは、「天国で会いたい」ではなく、「できたら一緒に酒でも飲みたかったな」ということ。わたし自身の素直な気持ちも、震災でお子さんを亡くした女性と同じように、「生きているあの人と会いたい」というものです。
この父親が亡くなったあとのことについては、わたしが妻の助けを得ながら、ひとりで行うこととなりました。ほかの兄弟たちは「家族を捨てた、あんな父親のために、何かしてやるつもりはない」という立場を変えませんでした。
その結果、とにかく忙しかったし大変でもありました。
そして気がついたら、父のために泣く時間がなくて、泣くタイミングをすっかり逃していました。ゆっくり思い出す時間も取れませんでした。「思い出そうとしてもうまくいかない」というより、そんな余裕がないというのが本当のところでしたね。
実は、これは今でもトゲのように胸に刺さっています。
それでも、父に対して「全部許す」と言って、彼を安らかに逝かせたことで、わたしには苦い後悔はありません。父親のことは、全体として、懐かしく思い出せるようになっています。
こういう、ちょっと一筋縄ではいかない、複雑な死別の経験が、うっすらとこの曲には投影されています。
番組を作りあげたすべての人たちへの感謝
「世界はほしいモノにあふれてる」は、三浦春馬さんの死去のあと、彼の収録回をすべて放映。彼の追悼番組にあたる回を「感謝祭」として放映してくれたことにも、彼への愛を感じました。
三浦さんの後を引き継いだ鈴木亮平さんの、真摯で誠実な姿勢もうれしかった。
その後、番組はレギュラー放送としては終わってしまったけれど、この番組に関わった全ての人たちの、さまざまな気持ちが、とにかく美しいと感じました。
この素晴らしい番組を作り出してくれた人たち、その後も守ろうとしてくれた人たちに、感謝を伝えたい。そういう気持ちもあって、作った曲なのです。
僕たちは再び取り残された
それから3年ほどが経って、2023年5月6日に、友人がガンで亡くなりました。
彼の死去の連絡を受けて、頭の中を流れたのが、この曲でした。
わたしは、年齢的に、これから多くの人との別れを経験します。頻度も回数も増えるでしょう。ああ、そういう人生の時期に来たのだなあ。そんな感慨があります。
なぜなら、亡くなった友人は、わたしよりも年下だったから。少しだけ、死の影を濃く感じるようになりました。
この世界に、あなたは、もう、いないけれど、
僕たちは、この世界で生きていく。
あらためて、そういう気持ちを強く持ったので、この曲をリメイクすることにしました。まあ、元々の曲の完成度があまりにも低かったので、なんだか申し訳ない気持ちだったっていうのもありますが。
この曲が、大切な人を失っただれか、つまり、あなたにとって、いくらかでも心の慰めになればと、そう願います。
補記:楽曲はVOCALOID COLLECTION 2023 夏に合わせて、2023年8月5日の午後(もしかすると夕方近く)に公開予定です。それ以降は、ここに楽曲のリンクを貼っておきます。
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