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ADHDは世界の見え方が違う

こんにちは。ADHDです。

最近、自分は人と異なる世界の見方をしてるんじゃないかと強く感じるようになりました。

その原因について考えていきたいと思います。


通常のフレームワークを持っていないかも

自分は、一般的なフレームワークで世界を見れていないと感じることがあります。自分の世界の見方を、勝手に「メタの視点」と呼んでいます。「構造だとか、仕組みだとか、理屈みたいなもの」を軸に物事を考えている気がします。


仮説

私は、周囲と比べて脳内の処理速度が速いです。特に言語ベース。YouTubeは全部倍速視聴してます。それでも、もっと速くしてほしいと時折感じます。

ですので脳内リソースには常に余裕がある状態が続いていたのではないでしょうか。リソースが余って仕方がないので、より高次の視点を理解するのに使っていたように思います。

すると、メタ的な構造とかに目が行きます。ものごとを普通に捉えるのではなく、構造的に理解しようとします。はじめは規則の妥当性を疑うところから入ります。それでも飽き足らず、次第に「より高次の概念」を触り始めていきます。世界はどうやって動いているのか。組織はどういう仕組みで出来ているのか。人は何のために頑張るのか。何がうれしくて毎日を生きるのか。
同時に、新しいものを創造することがどんどん楽しくなっていきます。リバースエンジニアリングです。じろじろ観察して、構造を把握したのち、アレンジを加えながら再構築する。これが楽しいんっすわ。飽き性極めてるので一回寝たらしばらく(≒永遠に)放置することになるんですが。

「抜け道」をイメージしてもらえるとわかりやすいかもしれません。みんなは整備された国道を走っているのを横目に、四駆のジムニーの駆動力でで未整備のダートにゴリゴリ突っ込んでいく感じ。

与えられた目標を淡々とこなすことの何が楽しいかよくわからない。自分で新しいこと見つけてきて飽きるまでやる以外に楽しい事なんてないでしょ…と結構本気で思っています。

しかし当時の私は「他のみんなも当然同じ考え方をしている」と思い込んでいました。何なら今でも若干そう思っています。他のみんながダートに突っ込まない理由がよく分からない。


みんなと違うかも

そういうわけで、他の人と微妙に話がかみ合いません。常に首はナナメに傾いていました。なんかちがうな~と思い続けてきました。

「難しく考えすぎ」「余計なこと思い浮かべすぎ」などとよく言われます。そうなのかもしれません。

ですが、私にはこの考え方しかできません。もっと一般的なフレームワークで世界を見れたらいいなと願いますが、それはすごく難しいことだと感じます。

メタの視点」的考え方をしてない人から見ると、私が頭の中で何を考えているのか多分理解できないように思います。それを一般的な語彙で表現しようとすると「創造力がある」だとか「柔軟な発想ができる」と評価される…のかもしれません…?

いや違くて!私はそっちの視点のものの見方がよくわからなくて困ってるんですよ。

多分「共感」とか「安定」とか「現状維持」とかそういうのがベースになってるんだろうな~ということは薄々わかるんだけど、それで生活してて楽しいんか…?と疑問が残ります。

ありのままに振る舞った時の私には、居場所がないんでしょうね。ある程度自分を殺して生きていくしかないんですわ。


「お笑い」に助けられた幼少期

このように、私は世界を捉えるフレームワークが大幅にずれているのですが、それでも「私は人とコミュニケーションが取れてきた」と自認しています。かなりギリギリのラインですが。

私が育った地域には「面白ければすべてよし」という風潮がありました。特に小学校ではそれが強かったように思います。他県の人が聞いたらびっくりするかもしれませんが、笑いさえ取れれば、容易にスクールカーストの上位に食い込むことができたのです(ほんまに?)。

とにかく面白いことさえ言えば、周りから認められます。ですので皆、必死に面白いことを言おうとします。友人は皆、負けられないライバルであるとともに、同じ頂を目指す同志であったのです。

とにかく面白いことを言えばいい。世界を捉えるフレームワークがバグっている私であっても、この戦場で求められるふるまいを理解することは容易でした。やることは2つしかありません。適切なタイミングでボケるか、一番乗りでツッコむか。

ありとあらゆるお笑い番組を録画して、キラーフレーズを覚えていつでも言えるようにしました。時事ネタを仕入れていつでも”抜刀”できるようにしました。話題を振られたら必ず笑いで返さなければならない。ひな壇芸人さながらの緊迫感です。

今思うと、この頃から、まともなコミュニケーションはとれてなかったんじゃないかと感じます(笑)。ボケとツッコミの質が担保されてさえいれば、コミュニケーションは成立するのです。ちぐはぐなことを言ったり、間がとれていなかったりすれば、それすなわちBAD COMMUNICATIONなのです。なんて明瞭なのでしょうか!

こんなことを言っていますが、私はあまり面白い系の人間ではありませんでした。笑いを取るためには、大きな声ではきはきと喋るのが一番大事なのですが、私はそれがあまり得意ではありませんでした。ですのでセンス系のお笑いで闘うしかありませんでした。とはいっても周りはクソガキですので、センスで闘うのは分が悪いです。ですので立場的には弱かったように思います。それでも常に向上心を持って臨んでいたように思います。毎日がすごく楽しかったのを覚えています(ほんとうに、何?)。

育った地域に「とにかく面白ければOK」というわかりやすい評価軸があってよかったと思います。面白いことを言おうとすれば、仲良くしてくれました。人とのつながりは全て面白が担保してくれていたといっても過言ではありません。

年を重ねて外の地域に飛び出すと、この評価軸が存在しないことに愕然としました。同時に、どのようにして人とコミュニケーションを取ればいいのかよくわかりませんでした。大声でネットミームを叫んだり、自分でボケて自分でツッコむ一人二役をするなどして、頭を抱えつつ生きてきました。そうして今に至ります。

(ここまで書いておいてアレなのですが、「面白いことを言えばOK」の風潮だけではなかったような気もしてきました。確かに面白いことを言えばOKの風潮はありましたが、いくつもある価値評価基準のうちの1つに過ぎなかった気がしています。普通に、足が速いとか、ドッヂボールが強いとか、かわいいとか、おしゃれだとか、他のみんなはそういうのも重視してたのかもしれない…)

いずれにせよ、「お笑い」が私と世界との接点を担保してくれたことは間違いありませんし、今も非常に役立っています。ありがとう、お笑い。


すぐ飽きる


予防線

北野唯我さんの『天才を殺す凡人』という書籍から引用したいことがあるんですが、その前に1つ前置きをしておきたい事があります。

私は天才ではありません。いや私なんかよりすごい人間たくさんいるし、私ごときがそれを自称するなんておこがましい…その言葉はもっとすごい人のために使ってあげてください。天才ということばには「善きニュアンス」がまとわりついています。しかし私はそんな善き人間ではありません…


本題

それはそれとして、本書では「天才はすぐ飽きる」と提唱されていました。

確かに、大体のことはすぐ処理できます。学校の授業は全部わかるのですごく退屈だったのを覚えています。日々「飽き」との戦いです。こんなん誰でもわかるだろ~と思いながら真面目に授業を聞いているフリをします。

そもそも、新しいことに飢えているのも「日常に飽きている」からかもしれません。つまらないことの繰り返し。新奇な刺激を浴びないとやってられません。一度構造を把握してしまえば、新しい刺激は得られません。すぐ飽きてしまいます。

新奇な刺激は、抽象的なメタの世界で思索するだけで容易に得られます。難しいテーマについてぼんやり考えれば何か新しいものが得られます。それ以外では、興奮できないのです。

自分のことを「この世の全てに飽きている」と捉えると、割と説明がつくように思いますね。新奇な刺激を求めて、抽象的な思考をしたり、新しいことに手を出したり。

これ研究者しか生きる道がないのかもしれないなあ。でも論文書けないしなあ…

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