啓蟄 第七候 蟄虫啓戸
二十四節気は啓蟄になり、 七十二候は、初候の「蟄虫啓戸」すごもりのむしとをひらくでした。(3/5~3/9頃)
季節は暦よりも少し早く進むのか、六候のうちに朝の空気にぬくみが感じられることもあってか春蝉がなくようになり、まさに啓蟄を地で行くようなお天気でした。
ところが、いざ、本当の第七候、虫や動植物たちが動き始める頃となると、なんと朝の気温は15度を割って冬の頃に逆戻り。セミたちも黙りこくってしまいました。
緯度の低いタイらしく、昼間こそ最高気温は35度前後まで高くなるものの、空気が乾いているので、部屋の中は日中も涼しく、日がくれればみるみる気温は下がってゆき、煙害で埃っぽい空気のせいかなんだかマラケシュの初夏のようなお天気。庭から漂ってくる濃密な龍眼の花の蜜の香りもどこか異国的で、ボウルズのシェルタリングスカイのような絶望的な物語を読みたくなってくる乾いた気持ちが迫ってきます。
そんな風にして、明日は、少し暖かくなるだろうか、明後日はと思っているうちに蟄虫啓戸はすぎてしまいました。
そんな風にセミは黙り、人もどこまでも伸びていく夏休みの午後のようなひんやりした気持ちになってしまいましたが、全ての生き物たちたそうだと言うわけではありません。猫やインドカッコウは恋の季節で狂おしく鳴き、そして狂おしいといえば、この期間2度もあった羽蟻の大群の襲来でしょうか。
日が暮れて、街燈の蛍光灯がともり出す頃、ウスバカゲロウのような儚げな羽虫が光の中をちらちら飛んでいるなあ、と思っていると、それはいつの間にかぼんやり光る大きな渦となっていて、その頃には庭でそれを眺めていた自分の頬に同じ羽虫がぶつかったり、肌や髪を這う感触がし、あらためて見回せば渦は光の周りだけではなく、光を目指してどこかから集まる羽虫らの群れの流れの中に居るのに気付かされます。
そんな渦中にいることに気づいた瞬間、わき起こるのはちょっとヒッチコックの「鳥」ににた、けれど鳥よりももっと小さくフラジャイルで、無表情な生き物のせいなのか、もっと内臓にまでじわじわとした感覚をもつ根源的な不穏さ。なにか、それ自体は小さいにもかかわらず、なにか無言の大きなものの、有無を言わせぬ旺盛さに圧倒される心地になってしまいます。
しかもこの羽虫、正体はシロアリなので、部屋に入れてしまうと家具や本、悪くすれば家までも傷めてしまいます。ひたすら光を求めて部屋の中まで入り込んでくる、一見はかなそうで逞しい彼らを避けるため、慌てて庭の灯を消して部屋へもどり、LED(光の波長が違うせいか、なぜかLEDにはあつまりません)の小さなランプだけを一つともして本を読みながら、彼らの静かに、しかし激しく生命の粒子が泡立つような渦が去るのを待ちます。
最初の数匹に気づいてからいつもおよそ30分。そっと外へ出てみると、渦を作る羽虫はまばらになり、土の中や暗い隙間へと潜り込んだ彼らが脱ぎ捨てた羽が、道に雲母の欠片のように輝きながらさらさらと風に舞っています。
そろそろ終わりと思いつつ、街頭で明るい塀や壁などに目をやると、そこに着地してしまった羽虫を狙うヤモリが何匹も集まり、羽を失って不自由な蟻たちを飽食する最中。時折チッと鳴きながら裸になった虫たちを貪食する様も、のどかな獰猛とでもいうような光景です。
朝の蝉こそ沈黙していましたが、羽蟻たちは古い巣を捨てて旅立ち、新天地へと辿り着き、その中のあるものは小さな両生類たちの身体の一部へと変容しているのでした。
春の夜、街灯の下には、巣ごもりを解いた虫たちの生命の渦が確かにあったようです。