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「カリブ海」入門中 博論日記#5

お雑煮を食べて、11時頃に両親と車で近所の白石神社に初詣に行った。その後、ロイヤルホストでランチと思ったが、調べてみると元日は休業だったので、急遽「とんでん」(ローカルのファミレス)へ行くことに。その後、親戚の家に挨拶に寄って帰宅。

元日なのでまだ何かに集中的に取り組む感じでもない。それと、1月3日に再査読の結果が来ることになったので、それも気になり、そわそわしている。

自分が主催している読書会(毎回の開催場所にちなんで、通称「カフェGOTO読書会」)では2025年の1月から2月にかけて「カリブ海思想」をテーマにすることになった。直接のきっかけは、エドゥアール・グリッサンの『カリブ海序説』の訳書が最近刊行されたことである。この本を2月上旬の回で取り上げることにして、1月はそのための準備(予習)の回とした。

そういうわけで今、中村隆之さんの『カリブ−世界論』と中村達さんの『私が諸島である』を読んでいるのだが、お二人が似たことを述べていたのが気になった。

中村隆之さんは「あとがき」で次のように書いている。

博論執筆時、筆者は文学研究とは究極的に「テクスト」を研究するだけで十分であると考えていた。しかし現在では、文学研究とは地域研究であると捉えている。カリブ海のような「場所」にこだわる文学の場合、その「場所」についての見識があるとないとでは読み方がずいぶん変わってくる。(中略)そのような知識によって刷新された感性が新たな文学の読みを可能にする、そう筆者は考える。

そして中村達さんは「序章」でこう書いている。

歴史だろうが理論だろうが、自由の感覚だろうが美の価値だろうが、そして知の形だろうが存在の意味だろうが、それらにはすべて地域的経験に基づいた複数のスタンダードがある。欧米の価値観は、その中のひとつでしかない。欧米という地域から生じたものが、必ずしも世界で唯一のスタンダードというわけではないのだ。

現在、このような考え方は真新しいものではない。人文学的な素養を身につけたエリートたちからすれば常識ですらあるだろう。だが、この二冊の本の最初と最後であらためてそのような「常識」を述べる必要があったということは、それがそれほど「常識」となってはいないことを意味する。

繰り返せば、あらゆる知的生産物(およそ「テクスト」と言いうるものすべて)には、それが生み出された場所に根差した経験が深く関わっている。それゆえ、そうした知的生産物を研究するためには、それらが生み出された地域を研究する過程を踏むことになる、ということだ。

自分なりに言い換えればこうなる。「テクスト」は経験的な世界とは異なる次元に属し、それ自体で自立している。「テクスト」は、それを作り上げた人間の人格や経験、その時代背景に還元することができない。これはまったく正しい。しかしながら、というか私は「それゆえに」と言いたいのだが、「テクスト」の意味や価値を担保するのは、「テクスト」に対して外在的なものに限られる。「テクスト」はそれ自体ではおのれの意味や価値を支えることができない。こう言い換えてみた。

「テクスト」とは原理的に言えば、あらゆる意味体系、価値体系、コード、ヒエラルキー、歴史からも解放されたユートピアだ(原理的なユートピアということはつまり、テクストが端的にそのようなものとして現前することはないということだ)。だから、「テクスト」は無意味だ。そこではただ、音やリズム、かたち、形式、構造の反復や差異が戯れているだけだ。研究者は多くの場合、そのような反復と差異の戯れに(のみ)内在し、それらの運動を定式化しようとする。

禁欲的なフォルマリスム。「禁欲的な」、とはテクスト外在的な情報を使うことでテクストを安易な物語(意味、価値、歴史…)に還元する誘惑に抗している、ということだ。

だが多くの場合、禁欲的なフォルマリスムの分析は、どこかの時点で、テクスト外在的なものとの接点を設けることで、あるいはそれを密輸入することで成り立っている。言い換えれば、禁欲的なテクスト分析、その価値や意味や生産性は、テクスト外在的なものとの接続によってしか担保することができない。

これも考えてみれば当たり前のことである。ある小説や映画なりをどれだけ内在的に分析したところで、それを取り巻く作家や歴史に接続しない限り、精緻な分析も無用の長物になってしまう。

話を戻すと、二人の中村さんはともに、非常に地域性の高い「カリブ海」の文学や思想を研究しているからこそ、そのようなこと(「場所」や「地域的経験」の重視)を言っているのだろうか、それは特殊な事例に過ぎないのだろうか。否、私はこれは人文学一般は当てはまることだと思う。

ここでは思い切って、人文学とは特殊性の探求だと言ってみよう。自然科学の理論モデルにおいては普遍的な理論体系が求められる、つまり自然科学はどれほど広範な現象を説明することができるかどうかが重要な点になる。それに対して人文学は、ある特定の「テクスト」の特殊性を記述すること、それもどれだけ高い解像度をもって記述できるかが重要になる。

そしてある特定の「テクスト」が、どのように、どの程度、どの点において、過去の・同時代の他のものに比べてどれほど、特殊であるのかを記述しようとするとき、「テクスト」に内在するだけではそれを遂行することができないことは直感的にわかるだろう。

そういうわけで、「テクスト」を扱う人文学は、「カリブ海」の文学・思想の地域性の高い領域だけでなく、すべて、「テクスト」がよって立つ「場所」、「地域的経験」を可能な限り研究しなければならないと思う。畢竟、文学研究とは地域研究であると言い切れるほどの強度で。

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