「楽しむ」「心地よい」という前書きの大切さ
〔個人的な思いつき〕 ソーシャルダンス。洗練されていくと、お茶の世界とか、そっちの「道」の世界に近づいていくののかも!?
「ただ美味しく飲めりゃいいじゃん」な人と と 「美味しく飲むためにも、耳障りなこと、不快なことは少ないほうがいいでしょう?(からの手順や作法)」という人。
(後者。お茶の道の人、ごめんなさい。イメージなので先入観や偏見かも、です)
そっかー!
で、「行き着く先は同じを目指してる」んだけど、創業者(発案者)は、それが暗黙的に意識してるからいいんだけど、二代目とかになると、場合によっては「楽しむ」とか、その起点を忘れてしまっちゃうのかも。
忘れちゃったところは「作法」とかの「硬さ」だけが残って、「形式としては正しい」し、むしろ洗練されてるんだけど…。
そういう場は、「これじゃない」感が出てきたり、「敷居が高い」感じになったり、「Welcome」な空気が出づらくなったりするのかも。
(ただ、レベルは高いから、前者的な意味での「楽しもうぜ」勢は、そこには歯向かえないし、歯向かったところで負け犬の遠吠え的になったり、そういう評価をされがちなのかも?そもそも、歯向かう必要もないのだが)
PS おそらく、ダンスジャンルは、大きく関係ないと思うんだけど…。社交ダンスはある時ルールブックを作ったと聞くし、おそらくそれよりは国内での歴史は短いであろう、アルゼンチンタンゴもある時、回り方がぐちゃぐちゃだったところLOD(大きく左回り)を取り入れたと聞くし(さすがに右回りあると、ぶつかると思うし、このルールは、「お硬い」に入れなくていいのでは?と個人的には思うけど。) 「楽しむ」と、「ルールや硬さ」との線引き加減が難しいところなんだろうけど。
確かに「不快なことあったら、楽しむ以前」と思うし。一方で、不快なこと減らしたり、快適にするためのノウハウは、多ければいいかというと、敷居は高くなる。
でもルールなしでは危ないし、不快に感じることも多いだろうし。
「楽しむための、ルールや、硬さ」というところでの『楽しむための』という前書きを、忘れてしまわないかどうか、ルール作りや説明の時に、「これらは、楽しさのためである」ということを忘れないことが肝要なのかもしれない。
おニューな(言い方古いw)ダンス、歴史が浅いソーシャルダンスでの、「楽しさ」はその辺りの、「浅い」ゆえの、「自由さ」があったりして、慣れない人や、初めての人にとっては「わかりやすい楽しさ」がそこに存在しているのかも。
(新しいジャンルだと、玄人や先輩が実質「いない」ので、既存ジャンルでの「玄人」とも、同じスタートラインに立てる。ネットの創世記あたりで若者が活躍したりできたのはそれだろうし、おそらく、建築やデザイン系での、若者がCADや3D CADでポジションを築いたのもそこだろうし。もっと言うと、既存のカルチャーの枠組みから外れたくても外れられなかった人たちも「新規のジャンル」だと、枠が外れる可能性があったりもして。おそらく、インドのカースト制の中でITなら、というのもそこだと)
サルサとかは、国内では、ZoukやBachataよりは長そうなんだけど、長そうなわりに、社交ダンスやタンゴほど「お硬い方向」に走らないで済んでそうなのは、なにか、理由はあるのだろうか。(いや、実は、硬いのかも?)
ポイントとして、ソロでも動ける完結さみたいなところが、あるんだろうか? (社交ダンスのソロ、タンゴのソロパート、あんまり見た覚えがないので。シャイン。あるのかもだけど)
まぁ、「長そうなわりに、わりかし初めての人にも『楽しそう』と思われされるわかりやすさが残ってる理由はなんだろう?」と理由の可能性の、仮説の一つです。他にも何かあるんだろうなぁ。
※この場合の「ルール」や「硬さ」は、ソーシャルでいう、「音の聞き取り方の作法」(どう聞いたって、それぞれの好みなんだけど、そうじゃない、って言うのがどのジャンルのダンスで、ある)や、「ステップの踏み方」(それらを通してのコネクションの取り方)など。
それらをどれくらい厳密にさせるか、という線引きのこと。
(「怪我させるレベル」は当然野放しにはされないとして。その極端なのから下の、グラデーションの中で、「楽しむため」に、個々人の最適解が出されていった結果としての、「なんとなくの線引き」があるよなぁ、と思ったりしている。)