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如是我聞

 私は休みの日に一人でいるときは、もっぱら本を読むか夢遊病患者のように空っぽの頭を携え、何をするというわけでもなくず街を歩きながら時間を費やしている。

 社会人の休日というとゴルフをしたりキャンプに行ったりと有意義なものであるということを昔の自分は想い馳せじんでいたが実際のところ酒を煽り本を読み、来る労働のXデーまで身をすくめているだけであった。

 この体たらくぶりはいかんと何か始めてみようとするも体が動かなく畢竟本を読む生活に戻りお日様が身を隠すと行きつけのBARに足を運びシェイカーを振る粋なバーテンダーの姿を眺めながらジントニックの一つでものみただただ過ぎていく時間を見つめるのみだった。

 この間地元に帰省した時に思ったことがある。それは実家にいる間、本という書物たるものは手に取らずとも平気であるということであった。大学時代バイトや大学に行くとき、親友と飲みに行く以外はあまり人と接さず本を読むことに努めていた。それは時間に対する復讐かのようであった。

 当時の自分は本を読むことこそがすべてだと考えていた。作者と向き合いこの作者は何を考えているのか何を伝えようとしているのだろう。そんなことばかりを考えていた。そのせいか同年代の人と話してみると親父くさいだとか精神的に老けているなどと言われることも多々あった。

 ところが実家に帰ってみると恐ろしいほど本を読まなくなる。取る気さえ起きなくなってしまう。いったいどうしてだろうと文章を書きながら気が付いたことがあった。孤独感を感じていないということだった。

 一人でいるときに感じるどうしようもない寂しさというか疎外感のようなものを感じず平静を保っていられるような感じ。陽気な親父に話しかければ適当な返答ながらも反応してくれたり。母が夕食は何が良いかと聞いてきたり会話が生まれる。とりあえず家に誰かがいるという安心感という物は何よりも代えがたい貴重な存在だった。

太宰が如是我聞のなかでこんなことを言っていた。

本を読まないということは、その人が孤独ではないという証拠である

『如是我聞』太宰治

 文字通り即していえば本を読む人間というのは孤独であり反対に本を読まない人間は孤独ではないということ。

 私が実家にいたときの思いというものを的確に表した太宰の言葉は私を救ってくれるような心地よさがあった。

 本を読むとき人は一冊の本と向き合うことになる。それは作者が書いたとしても私が読む本はたいてい作者が死んでいる作品ばかりで一種の死を孕んでいる。
やはり一人なのだ。思い返してみると本を読むことは空虚なものであった。
それでも日常生活で嫌なことや好きだった子に振られた時も本を読むことで現実世界の救われない気持ちを紛らわそうとしていた、ともいえる。

 今後生きていくうえで本を読まないという選択肢は自分の中にはない。自分から本というものを取り上げてしまったらあっという間に私は小さな弱い生き物と成り果て、いずれ朽ちていくことだろう。

 孤独という物は誰しもが抱えている一種の病であり特段珍しいものでもない。程度の差は違うけれど誰しもが孤独感を感じている。

 今までの人生の中で、この人とは分かり合えそうだという人間は本好きの人が多かったように感じた。孤独という味を知り、本を読むことで孤独を和らげる。自分と同じような気持ちを持っているからこそ通じ合うものができる。そんな人と共に時間を過ごしていたいと耽った24歳の冬の日であった。


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