アタマのゴミ箱 9月第2週

好きなものを見ても、好きなものに自分がなれるかを考えてしまう。好きなものを発信して与える側になれるかを考えてしまう。今は無理だとわかる。俺がたどり着きたい場所にすごく遠いことだけはわかるけど、道筋は見えない。どのくらい絶望的なのかが分からない。努力で埋まるものなのかが分からない。だから俺はずっと動けない。俺には無理だと分かることが怖いから、それが一番俺が壊れる可能性が高い事だから。好きなものを好きだという視点のみで見ればこんなに苦しいこともないのに。俺は何がしたいんだろう。俺はわがまますぎる。

「周りが急に静かになり、そういえばうるさかったんだと気づいた。」←この文章なんかいい

音楽はピタッと自分と密接することはなくてそれが心地いい。もっと言うと非生物は無理に密接してこないからいい。生物は無理にでも密接しようとするところがあって、スマホの画面フィルムに気泡が入っている時みたいな、密接しているからこその違和感が浮き彫りになってしまうことがある。でも生物は一度気泡なき関係を味わってしまうと孤独を知ってしまうので、密接をしたがる。結果としてたくさんの人との間のたくさんの気泡を自覚することになる。人によってその気泡の大きさや分布は異なるけれど、私たちはそういうものに傷つけられて励まされている。こいつとの間に気泡があってよかったと思うことすらある。

俺には他人が羨ましがるような能力があると信じている。信じることだけで大抵の人間は超えられる気がする。結局自分がいかにすごいと思い込めるかが人生だ。つまんね。
あ〜俺も俺が忌み嫌っている、歳が上なだけで偉そうな人とか、ただ定年まで働いただけなのに偉そうな人とか、自分が情けをかけた思い出ばかりを語る人とかになっていくんだろうな。つまんね。
この世には人間が多すぎて、オリジナリティなんてものは存在しない。誰もが誰かのパクリで、順張りで、逆張りで、俺はオンリーワンにはなれないのに生きる意味ってなんなんだろう。死ねば同じ大きさの石が並ぶ奇妙な土地に埋められてさ。
そんなことするために俺は生まれてないと思うけどな、俺ってなんなんだろうな。そもそも自分に価値があると思うことこそが傲慢なのかもね。俺は何も出来なかったし、多分これからも何も出来ないし、俺の子供も、孫も、子孫たちも何も出来ないし、そうなってくるとなんなんだろうな。同じように俺の祖先も何も出来なかったわけだけど、彼らは俺をこの世に生み出すことに関して何を考えてたんだろうな。何かを託そうとしたのか、ただセックスが気持ちよかったのか。教えてくれよ。後者の理由の方が面白そうなのでそっちの方がいいな。何かを託されてたとして、お前ができねぇなら俺もできねぇよ大抵。願いは分解していくと、上位の願いがあって、大抵はものすごく曖昧な幸せだったりを願っているわけだけど、そんなのはどうにもならないよ。
お前らは幸せを狂信しているだけなんだよ。幸せという言葉に自分をねじ込めて、幸せという言葉を改造して、そう思っているだけだ。その自覚もなしに愛だの幸せだの語らないで欲しい。お前の幸せには後ろめたさが付きまとうべきで、お前が世界を改変していることに気づけ!!!
お前の世界はお前が改変していいけどさ、その改変は少なからず周りに伝播するわけ!わかる?
その伝播をなくせとは言わないけど、申し訳ないなとか思えって言ってんの!なぁ!話聞いてる?
聞いてないよね
あなたはいつもそうですよ、話聞いてるフリしてさ。フリというか、あなた自身も聞いていると思っているんだろうけど、そこがさらに罪深いよね。
なあお前だよお前、聞けよ。
あ、聞いてはいるのか、聞いてはいてもわかるかはわかんないもんね。実際俺だってわかっているかわかんないし。ごめんね。俺もわかってないのに偉そうに言って。本当にごめん。

俺はただ1人で悲しく寝ることが辛いだけなのに、それが俺の生活の全てを壊している。
ただその欲を満たすことの為だけに他人を巻き込むことはできなくて、かと言って相手に何かを与えられるような気もしない。
俺が分身して、俺を抱きしめて寝るしかない。俺が分身しさえすれば、分身さえ出来れば、全てが上手くいく気がする。でも実際分身はできないので上手くいかない。あの〜もしこの文章を忍者の方が読んでいらっしゃいましたら、分身教えてください。

窓ガラスの反射で自分のゴルフのスイングを確認しているおじさんを見た
人生の神回だ

通っている病院の院長が病気らしく、自分のいつもお世話になってる先生が穴埋めで忙しそうだと感じた、私は「忙しそうですね」と言い、診療が早く終わるように務めた、こういう報われない優しさが俺を少しづ蝕んでいる気がする。先生はありがとうといって、私の気遣いを無駄にしないように最低限の会話をして診療を済ませた。こういう人が最も信用できる。
私は私の意図しない善性によって苦しめられている節がある。善性というのにはストッパーがない。時に、自分の命に替えて、他人を助ける人がいるように善性は肯定されるものだからだ。でもよく考えてみると、その人にとって1番大事なのはその人の生命であるべきだ。このように、善性は時に自分を苦しめる。私たちは、自分の善性にこそより気を張って生きていかなければならないのだ


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