いじめはなくなるのか?① ~心の教育がかえって問題を生むジレンマ~
こんばんは!ダンです!
今回からのテーマは「いじめ問題」です。
いじめ学校だけでなく大人の世界でも問題視されており、社会問題といっても過言ではありません。
大学院時代からいじめ研究をしてきた、しがない教育者なりの考えを皆さんにお届けしますね☺︎
実は、僕が教育者として志を掲げたのは中学2生の頃です。
大津市で起こったいじめ事件が大きく報道されました。被害者の命が絶たれたことをニュースでみたとき、どうしても他人事とは思えずに涙を流しながらその子に祈りを捧げました。
そんなときに抱いた自分の夢は
「いじめのない学校をつくること」
そんなことをぼんやり頭に描きながら大学四年を迎えたとき、教育者の道に進もうと思い、大学院進学を決めました。
そして、いじめをはじめとした教育問題の研究に取り掛かりました。
「思いやりの心を育めば、道徳教育をちゃんとすれば、子どもたちはきっと人をいじめなくなる。」
当時14歳のダン少年はそう強く思っていました。
これを聞いて皆さんはどう感じられましたか?
彼と同じように思う方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
実は、これは半分正解で半分不正解です。
どういうことかというと、昔のダン少年のような視点は素晴らしい考えである一方で危険性を伴っています。
これはつまり
「心の教育への“曖昧さ”と”過信”」
がかえって問題を深刻化させてしまう。
ということです。
問題の一つ目は、現実的な手立てを突き詰めていかないと観念論(理想論)のままで終わってしまいかねないということ。
ダン少年を例に挙げるならば、
「思いやりの心とは一体何か、どうやって育むのか?」
「絶対にいじめない人なんて本当に育てられるのか?」
「道徳教育を “ちゃんとする” とはどうすることなのか?」
などのように
問題解決に向けた仮説を立て、検証する過程に力を入れなければなりません。
そうすることなく
「思いやり教育の時間をどんどん増やそう!」
と意気込んでも生産性が非常に低いわけです。
そしてもう一つの問題は、
上のような曖昧な観念論に対して
「思いやり教育がとにかく大事なんだ!」
と過度な期待と信用をしてしまう ことです。
そして、あえて批判を恐れずに言うならば
道徳が教科化されたときから今に至るまで、心の教育に対する“曖昧さ”と“過度な期待” を社会全体として抱いてしまっていたことが
いじめや不登校の現状にも繋がっている。
と自分は考えています。
そして、今のいじめや不登校といった問題の現状をつくりだしてしまったのは私たち大人である以上、大きな責任があります。
いじめ問題の根底に潜む大きな課題について話すだけでかなり盛り上がってしまいました。(実はまだ半分です)
私が批判覚悟でこれだけキツく書いているのは、今後の教育業界や社会全体に対する危機感、そして「心の教育」の重要性を強く感じているからです。
これはあくまで西山の一意見であることは忘れずに(^^)
次回は問題提起の基盤を見つめ直して、
「そもそも本当にいじめや不登校は過去最大の問題なのか?」
を一緒に考えていきたいと思います!
自分なりのデータの見方をお伝えしますね。
それではまた。