のっぴきならないこと ~愛着障害に関する自分なりの考え~
以下日記。
親から愛情をじゅうぶんに受け取っていたと思う人は、以下に僕が書いた内容に「信じられない……」と思うかもしれない。
「親に感謝を伝えましょう」━━━小学校の道徳の授業などで言われたこの言葉に違和感があった僕らには、このような事が起きていたんだと。
世の中には適切な愛情を受けずに中途半端に生き残ってしまった僕のような人間がいることを知って欲しくて、そして同じ苦しみを抱く人が共感して「自分一人だけじゃない」と思ってくれることを期待して。
愛着障害 という言葉がある。
幼少期から親などの養育者と基本的信頼感を育めず、その後の人格形成で起こる困難のこと(要出典)を指す言葉。
「愛されなかったor愛され方を間違った」ことにより、対人関係や生活習慣に問題が起きる、ということ。
ごく最近、この言葉を知って、言われてみればなと思ったので報告までに。
母親は自分自身が絶対的に正しいと信じてはばからない人間だ。それは僕の祖母、母親の母親と愛着障害があったことが原因で生まれたひずみで、それが元になって僕と母親との愛着障害が発生していると、相談に乗ってくれたメンタルケアの先生が推測してくれた。
今もリビングで疲れた父親に対して「自分の考えがいかに正しくて他が納得いかないか」を一方的にまくし立てている。原因が僕のメンタルに関わることなだけに苦しくて、僕は自室に逃げてこれを書いている。
例えば思い出して欲しい。もしくは最近あったことを思い返して欲しい。
平日、学校に行きたいが体調が悪い。そんな時、普通の人は親に「体調が悪いから休みたい」とはっきり言えると思う。親はそれに対し心配したり、ゆっくり休んでくれと思うかもしれない。
僕の場合は言えなかった。言ったとしても、「朝寝起きだからそう思うだけでしょ」「そんな気がするだけ」と母親に一蹴されるからだ。
平然と学校に向かうふりをして、近所のお寺や海岸で時間を潰し、母親が家を出るタイミングで帰ってベッドで休んだ。
高校の頃までは普通だと考えていたが、今思うとすげぇ異常なことだと思う。
TwitterとかのSNSやテレビ番組で見るヤバいクレーマーなどへの対処は、だいたい「関わらないこと」で片がつく。しかしそれが肉親である場合はそう上手くいかない。
ましてや学生など、人格形成をしている時期の人間は、親からサポートを受けて学ぶはずの様々なことを、片親、もしくは両方の親から受けられないこともある。
僕の場合は一般常識がそうだった。何年も着てるヨレヨレの服で外に出たり、アホみたいに爆発した髪で外に出たりすることに、大学に入るまで(=親元を離れるまで)恥だと分からなかった。自分のことも好きに思えなかったし、ましてや他の人を真に大事に思う感情など培えてるわけもなかった。
これを読んでる普通の人にいちばん言いたいことは、そういう世界もあるということだ。
自身の正義を強いたり、子供をぞんざいに扱ったりという家庭もある。
そういう可能性のある人に対し、「親に感謝しろ」という系統の言葉を見境なくかけないで欲しい。中にはその言葉で子供を縛り付ける親もいる。ただ「そっか」と言ってくれるだけでいいんだ。
さて、ここまで読んでくれた辛さを共有する私たちへ。どう向き合うか。
愛着障害と一言にまとめても、いろんな事例があるので「これしとけば大丈夫!」といえるものはない。
以下は自分の備忘録として書き残しておく。
1つ、ひたすらに外に手を伸ばすこと、いろんな人と接することだ。
これは驚きの情報なのだが、世間には君のことを認めてくれる、価値を見出してくれる人間が割といる。もちろん、胡散臭いやつもいるけど……
自分はらしく居ていいと思えるような、自己肯定感をもたらしてくれるような人と出会うためには、いろんな人と会話し、行動し、過ごすことが手っ取り早い。
高校は学校によるけど、学生のうちはバイトとかでもいい。飲食店や居酒屋みたいな、むっちゃ忙しい時間とそうでもない時間が勤務中にあるところとか。
僕が大学の建築学を休学(事実上退学)したのは、バイト先の定年退職してパートしてた焼き鳥焼いてるおじちゃんの後押しのおかげだし、デザインの専門学校に行ったきっかけは、お客さんとしてある時いらした写真家の方の展覧会に行ったからだ。
趣味である信ぴょう性のミリもない占いは、バイト仲間や学校の友人に「助かった!ありがとう!」と言われた経験から続けているし。
自分という存在は、1つの場所にとどまらず、いろんな場所で作り上げることができる。
家でいくら否定されようが、「でも私には認めてくれる人がいる!」と思えると、気持ちは軽くなる。
もう1つは、自分はいてもいいと言い聞かせること。
生き様なんていいじゃんって思い切ること。
驚くことに、どんなに否定されようとも、それはあくまでその人の意見。友人その他大勢から否定されているなんてことはまず起こりえないのだ。
絵でも歌でも勉強でも運動でも、まあ、お金や時間、倫理的問題で制限されることはあるかもしれないけれど……それを他人の意思により否定されることは大概おかしいことだ。
気にするなとは言えない。僕がその言葉を信じて気にしないような人間ではなかったから、強制はできない。
けれど馬耳東風に聞き流せるように、「はいはい」と思えるようになれば、なんか楽に生きられそうな気はしない?
結局は「親と合わなかった」ってことだと思う。
しょうがない。だったら次どうしようかと考えようや。
親のために生きてるなんて馬鹿らしくないか?労働力として子供を産む親……いないと思うけど、自分らの親がそこまで考えて産んだと思うかい?
自分のために生きようや。言われてやることより楽しいと思えることをしよう。
そういうことだったんだってドライに思うことも、もしかしたら転換点になるかもしれないって僕は思う。これを読んで、何かを、なんでもいいが何かを考えてくれたなら僕はそれだけでも嬉しい。