2022/10/3 1:10
二人暮しについて
二人暮しも無事1ヶ月を突破した。大きな齟齬も問題もなく現状は進んでいる。しかし、それまで知りえなかった相手の側面が見えてくる…ということもなく、こと私においては凪の状態が続いている。
自分が抱えるひとつの大きな違和感として、一般的な「好意」と自らのそれが乖離しているような気がしてならない。
好意について。
私は正直、他人のことを好きだと思う感覚が未だに掴めていない。今のパートナーのことも、恐らく好きなのだろう、という感覚止まりだ。一緒にいると心地よい、安心する、というのが好意なのだろうか。
そんななんとなく定義されているものなのだとしたら、推し量るのも難しい、真似することも苦痛だ。
今のパートナーに私が抱いているプラスの感情は大きく2つ、「力になるために頑張りたい」と「支えてもらえてうれしい」だ。恋愛というよりは親愛というものなのだろうか。
同居している以上、お互いを支え合うための関係性を、背中を預けてもいい信頼感、それに追随する生活力を身につけていかなければならない。努力はその為に。
今はただ力を蓄え、水底を這う如く、ゆっくりと進む。
人には人のメメント・モリ
死についてよく考える。Twitterでもよく呟く。呟く時間帯はさすがに深夜を選んでいるが、昼間に死の解釈を広げていない訳では無い。
私は、後悔のない死は存在しないと思う。
かっこつけて「悔いはない」などと言っても、意識の消えゆくその刹那、人間誰だって「もう少し」を望むのだ。もう少し健康で生きていたかった。周囲の人間と笑っていたかった。など。
多くの宗教のメインコンテンツは、現世ではなく死後の世界に終始する。極楽浄土に行くために普段から善行を積むのか、はたまた、死後の世界で49日間の修行を通し、それでもって仏へと昇華するのか。輪廻転生をして、別の生物や人間に生まれ変わるという考えもある。
しかし、結局のところ、人間はただの固体であり、一瞬のゆらぎに相違ない。自分たちが生きて思考を重ねるのは特別なことではなく、人間という種がたまたまそうなっただけなのだ。石が川の流れで削られるように、生物というものは(いまのところ)いつか意識を途切れさせるように出来ている。
では、死とは。
私の現状での考えは、連続性の喪失、つまり時間を跨ぐことが出来なくなることだと考える。
生きるということは、一瞬ごとにその自分が生まれ変わりゆくものだと考える。つまり我々は一瞬ごとに死んでいるし、慣性によって生きている。死んだ、もとい消えた意識は、二度と日の目を見ない。私たちが連続していると思っているそれらは、ただ観測されていないだけなのだろう。
そして一般的な死は、
生の動的エネルギーが著しく小さくなり、慣性がごく微小になった結果、時間を跨げなくなった=これまで通りに一瞬ごとの死を甘受しつつ、しかし新しい自分の意識の創出ができなくなった
という状態であると推測する。
とはいえ、こんなに沢山考えても死は怖い。
いつか自分の意識というものが無くなってしまうのは怖すぎる。震えて夜も寝られない。
そこに折り合いを付けるためには、60数年なんて短い時間で足りるとは到底思えない。
そのときを怖がりながら、生活するしかない。