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知覚の扉の清め方

知覚の扉を清めるためにはどうすればよいか、ずっと考えていた。

瞑想 ――どうやら僕には向いていない。長時間ずっと座って目を閉じていられない。そんなことをしたら、脳みそに様々な雑念が飛び交って、知覚の扉を清めるどころではない。
祈り――論外だ。僕は神に祈るという行為自体ができない。創価学会員だった祖母を思い出していまう。そこに真理は無い。
LSDなどの薬物――できれば使いたい。しかし、混ぜものも怖いし、日本ではどうやって入手していいかわからない。仮にピュアなLSDを入手できたとしても、人の目の厳しい東京の街中で服用したら確実にバッドトリップだ。ではキャンプして山の中で使用したら?崖から落ちるか川に流されそうだ。無事にトリップできたとして、自分の思考や感情がどこにたどり着くのかがわからない。日常の行為とするにはリスクが高すぎる。
LSDは修行だ、と慣れたドラッグユーザーは言うがあながち間違いではない――古来より、宗教的な修行は常に死と隣り合わせであると相場は決まっている。できればもう少し、持続可能な行為をしたい。

一つだけいいアイディアを思いついた。創作だ。
創作は、ドラッグのようにお金がかからなければ、命の危険を伴うこともない。瞑想のように退屈でも無いし、祈りのように虚無的な行為でもない。それは退屈で死にそうな脳細胞を活性化させて、イメージを形作る喜びを与えてくれる。どのように作るかでウンウン頭を悩ませている間は、やることのない、楽しいことの無い日々の絶望に苛まれることもない。
ましてや今はパンデミックで外にも満足に出ることもできない。何かを作るにはもってこいの環境だ。

創作は、他人に向けた行為でもあるが、自分自身に向けた行為でもあると、今更ながら気づいた。ありとあらゆるものが存在するこの世界の混沌の中から、自分の心の琴線に触れたものを、収集し、整理し、再配置し、別の言葉で語り直す。この絶望的な世界の中から、これだけは信じられる、というものを探し出す行為に他ならない。
今こそ、他人のためではなく、名誉や称賛、金のためではなく、自分のために創作を始めよう。僕が素敵だと思ったものを、少しづつ集めて、心の棚に並べてみよう。でなければ、僕の些細な心の動きなど、あっという間にこの社会の大波や、日々の出来事に攫われて、かき消されて、忘れられてしまうのだから。

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