小説教室という地獄から得た気づき
昨日、とある小説教室の見学に行ってきた。
講義の内容は、とある作品を題材にし、生徒で集まって合評をした後、
講師がその作品の中にある手法を解説するのものだ。
後半の手法論は、かなり基礎的なもので、おさらい的な学びとなった一方、
前半の生徒たちの合評パートは、とても刺激的だった。
とにかく酷評するのだ。
世に出ている、生きた作者のいる、完成されたお話を、
「つまらない」「伝わりづらい」「ここの設定には矛盾がある」と
大きな指摘から小さな指摘まで、ボロクソに叩き続けていた。
『この人たちは小説が嫌いなんじゃないか?』と疑う程だ。
はじめ、ものすごく不愉快だったが、
講義が進むにつれて、ある大きな気づきを得た。
『自分は物語の良き読み手過ぎたのではないか』
という自身に対する疑いである。
自分は本が好きだ、お話が好きだ。
どんなお話にだって、そこに作者の熱意を受け取れば、
受け入れ、自分から魅力を見つけにいく。
それが習慣である。
だから、小説教室内の口々から発せられる罵詈雑言が
はじめ理解できなかったのだ。
世の中に溢れるお話達に寛容であることは、
生きてくうえでポジティブに働くことが多い。
しかし、自分自身でお話を作る際、それは転じて欠点にもなりうる。
世の中のお話に対する、批判性が無いという事は、
自分自身で書いた作品も、批判できないということだ。
書いてく上で、自分自身の作品の欠点を見つける能力がないのだ。
自分で書いて自分で面白がる、自己満足の妖怪の出来上がりである。
地獄に見えた小説教室。
ここから得たものは大きい。