帰省して知る新潟のこと② 笹川餅屋とヒロクランツ
その②
前回名前が出てきたので「笹川餅屋」6代目の記事も読んでみる。驚く話もあった。
64年に新潟国体が開催された。新潟地震の少し前のことだった。
その年のこともnoteで書いた。
今は新潟土産といえば「笹だんご」というイメージがあるが(ケンミンショーとかでも紹介してされていたけど)、当時は全然そんな認識はなかったな。
「笹だんご」を全国的にしたのは「笹川餅屋」の先先代の力が大きかったというのだ。日持ちが悪いという弱点を改良。それまでの「茹で」から「蒸し」にしたり、いろいろ工夫したとのこと。
他のお土産候補に「ゆかり」なんかもあったが、先先代の尽力で「笹だんご」が公式お土産に認定された。選手たちは「笹だんご」を手土産に全国へ帰っていった。新潟といえは「笹だんご」というイメージはこれで確立された。
知らなかったなあ。
この記事も母に読ませた。
なにせ母は好奇心の塊。またまたどんどん話が出てくる。
全国に知れ渡る前、「笹だんご」は今と違ってそれぞれの家庭で作っていたのだという。
言われてみて思い出した。
小さい頃毎年打ちたての大量に運ばれてくる板状のお餅を切る手伝いをさせられていた。少し固くなり始めた状態の板餅を包丁でいくつもいくつも食べやすい大きさの長方形に切る。その間母は茹でて柔らかくしたよもぎ餅で餡子をくるんで笹の葉でつつんでぶら下げていたのだ。
自家製笹だんごだった。自分ちで作っていて、余ったら人に分けたりしていたという。
その板状の餅とよもぎ餅を「笹川餅屋」に発注していた。さらに、その時代は何か慶事があるとお祝いのお返しやらご近所さんへのお裾分けで赤飯を配っていたらしい。
それも「笹川餅屋」に発注していた。
でっかい漆桶に入れた赤飯を四代目が自転車で運んできてくれていた。それを父が小分けにして配りに歩く。母との結婚も兄と自分の出産の時もそうだったという。
固くなった鏡餅は「笹川餅屋」へ持っていくと、打ちなおしてまた板餅として運んできてくれる。何かにつけて「笹川餅屋」と取り引きしていたんだなあ。
母はなにしろ東堀通り五番町が生家。西堀通り四番町の「笹川餅屋」は子供の頃からも嫁いだ後もずっと付き合いが深かったのだ。母にとって街が遊び場のようなものだったんだなあ。
「笹川餅屋」には昔から店のウィンドウには民藝品がたくさん飾ってある。なんだか夫婦和合のシンボルやら川崎の「かなまら祭り」に登場するような男性シンボルも飾ってある。
それどころかちゃんと神主さんにきてもらって神様を入れた稲荷神社もある。
母が子供の頃行くと、オープンな店先は冬でも暖かかったという。足元はスノコ状になっていて、だいぶ下の方にガスかなにかの暖房装置があったというから。
ここは明治期に創業したのだが、それ以前はここに牢屋があったという。
街中に牢屋!?
でもここは町外れだったからなんとか納得できた。今も西堀通りには寺が立ち並んでいるが、寺の後方は砂浜だった。その先は海岸。まぎれもなく町外れ。
創業する時、土の中からなにやらお経が書かれた石がたくさん出てきたという。牢屋の中で書いていたんだろう。どんな気持ちだったんだろうか?
それを店先に飾っていたはずだが、今でもあるのかどうかはわからない。
それはさておき、牢屋だったし角地だったので店はかなり広かったのだが、戦争(どの?)のため店の前の鍛治小路が拡張されることになった。同じ角地で大きかった考古堂は古町通りに移転したが、「笹川餅屋」は店が半分になってもそのまま営業していた。
狭かった鍛治小路なんか想像できないなあ。
母が子供の頃から出入りしていた「笹川餅屋」。
先先代、つまり4代目とその女将さんから母はだいぶ可愛がられていたらしい。「郷土史研究会」なるものに入ったのもその4代目の誘いだった。
店を継いだ後に急逝してしまった五代目が小さかった頃、五代目の弟がいて、よく「ひろちゃん、ひろちゃん」と母が可愛がっていた少年がいた。がっしりした五代目と違って細面でヒョロっとした女性的にも思える子供だったという。
後年、もう自分ちが「笹川餅屋」に餅の発注をしなくなって10年以上経っていた頃、店は兄が継ぐというのでその「ひろちゃん」はウィーンに洋菓子の修行に行ったと母は人づてに聞いていた。
さらに後年、母も歳をとってあまりで歩かなくなった頃、「ひろちゃん」が自分ら兄弟も通っていた「寄居中学」(横田めぐみさんも通っていた。心痛いなあ)の近く、「どっぺり坂」下に店を構えたと知ったけど行ったことないんだと、そんな話を母はしてくれた。
あ、その店知ってる。帰省した折は新潟の街なかを散策することが好きなのだが(自分ではパトロールと呼んでいるが)、その時その店を発見していた。近くには「カトリック新潟教会」(高校の頃、同級生のカズエちゃんとクリスマスミサに行ったっけ)や隣接した「聖園幼稚園」(中学の頃好きだった女の子がそこの出身)や、日銀・警察署・消防署や知事公舎なんかもあるなんとなく高級感のある地域。なんだか高そうで入ったことがなかった。母も店には行ったことがないという。
母は怪我などで身体を壊してからはあまり出歩いてないしなあ。
また店の記事を検索して母に見せた。
「ひろちゃん」はウィーンやドイツやらで何年も修行して、日本に戻ってきてからは製菓学校で後進の指導をした後、地域の人たちに美味しいケーキを食べてもらいたいと思って新潟市に開業したのだという。
次の日、霰が降ったり止んだりする悪天候のなか、その店「ヒロクランツ」まで行ってみた。
ずらり並んだケーキやクッキー。右奥の厨房(?)に「ひろちゃん」=笹川裕人さんはいた。忙しそうに立ち働いている。他は女性のスタッフが4人。奥様らしい方が店長さんか?
チョコを溶かしているのか、アルミパンをふる「ひろちゃん」の手元を真剣に見つめる二人はお弟子さんのよう。「ひろちゃん」は髪も白く、もう80歳オーバーだろうか。少し足がお悪いような感じがした。
忙しそうなので声をかけることははばかられた。
名物のザッハートルテは売り切れだったので、ウィンナートルテとバッケンケーゼ(チーズケーキね)と焼き菓子のリンツァーアウゲを買って帰る。奥様なのか、キリッとした雰囲気の店長が接客してくれる。でもちょいとお高めね。
母と2人でケーキを食べた。久々に「シャモニー」の珈琲を淹れる。焼き菓子はワイフへのお土産ね。
ケーキは甘みを抑えた上品な味。
母も美味さに感激していた。
母の若い時の「笹川餅屋」の記憶に別なページが加えられたかしら?
後日母に電話をした時、「ひろちゃん」に手紙を書いたと聞く。
自分が勧めていたのだ。数十年の時を越えてまた仲良くやってほしいから。
聞けば「ヒロクランツ」は、やはり新潟の(医者だとか大学教授だとかの)ハイソな方たちに人気らしいとのこと。
よほど美味かったのかヘルパーさんとか知人にその話をして評判を聞いたらしい。
「でもねえ、やっぱり高いからなかなか買えないよねえ」と母。
「いやいや、90年以上生きてきたしさ、貧乏で苦労してきた頃の自分へのご褒美として食べたらいいじゃん。」と自分。
納得したみたい。
「そうだよね。いいよね。ご褒美だよね。」
電話を切ろうとしたら最後に。
「でもねえ、○○さん(自分のワイフ)の買ってきてくれた無印の塩チョコスティックパイもうまいんだよねー。」
よかった。
なんだかハッピーだった。