子どもアドボカシーの罠
空が曇りなのがいい。加工できるのにしてない。そのまんまの風景こそがいいのだ。
子どもアドボカシーとは?
最近よく聞くようになった「アドボカシー」
意見表明権や権利保護と訳されることが多く、政策提言といった要素も含まれる。
なんだかわかるようなわからないような・・・。
なのでさらにいろいろ調べてみると・・・。
⇒医療や福祉の現場において、高齢者や障害者の権利を擁護するために、医療や介護にあたる人が、意見や要望を聞きだして代弁したり自己決定出来るようにサポートすること。
なんだかモヤっとする感じがあります。ありませんか?
そこでちょっと変えてみます。
⇒医療や福祉の現場において、高齢者や障害者の権利を擁護したり要望を理解するために、医療や介護にあたる人が、思いを聴きながら、共に考えたり代弁したり自己決定出来るようにサポートし寄り添うこと。
こっちのほうが近い気がしますね。ケアするよりもカウンセリングに近いと言うか、ダイアローグ的というか、聴きだすのではない、想いが溢れてくるのではないかと思います。私が保育園で子どもと接しているのでそう感じるのであって、介護施設や障害者施設だと変わるのかもしれません。
では、子どもアドボカシーはなにでしょうか?
子どもアドボカシーとは「子どもが話したいことを自ら話せるように支援したり、必要な場合には、子どもの依頼または承諾を得て子どもの思いや意見を代わって表明することです。」(子どもアドボカシー協会より)
ここでいう子どもがどこの年代を想定しているのか?0歳から20歳まですべてと考えていいのか?そう考えると、0歳児のアドボカシーはどうなる?とか現場だと考えますよね。どうやって0歳児の意見や思いを大事にすればいいのか?
「ちゃんと子どもの思いを聞きなさい!!!」とか怒られたりするのかな?さすがにないとは思いますが・・・。
子どもの権利
アドボカシーの考えはどこからきたのでしょう?
社会的弱者や少数者と言われる人たちの人権が大事にされてないという現状があります。高齢者や障害者。子どももそうですし性的少数者の人たち、もしかしたら外国人の方も入るかもしれません。そういった人々にも等しく権利があるという当たり前のことが実現出来ていない世界だからこそ生まれた考え方であると言えます。
私は子どもに関する専門家ですので、子どもについてのみ考えていきたいと思います。
アドボカシーと聞くと、「聴かなきゃ!」と思いがちだと思います。もちろん聴くことは大事ですが、もっとも大事なことは、相手を尊重し、「あなたの思いを大事にします」という関りだと思います。端的に言うと、オムツを替える時に、「オムツ替えましょうね」という言葉をかけること。「おいしかったね~」と言葉をかけること。「ゆっくり寝ましょうね」と言葉をかけること。もちろん、ダブルバインドではない、心からの言葉をかけてあげること。このことが、子どもを尊重する第一歩なので、そこを丁寧に実践してくことが大切です。
私たち大人は、子どもと比べても、大きくて色々なことを知っていて、経験も豊富です。だからこそ、子どもの人権を守る役割があります。
私が大好きなアサーションという考え方もあります。アサーションの第一人者である平木典子先生も、「泣くことも大事なアサーション」と話されたことがあります。泣く権利があると考えると、ちゃんと泣けたと喜ぶべきことですね。
とはいえ、なんで泣いたんでしょう???
子どもが本当に伝えたいこと
では、子どもが泣いてまでも伝えたいこととはなにでしょう?
わかりません!!!
と、いきなり投げやりになってしいましたが、わからないものはわからない。語彙が豊富ではないから?感情が未分化だから?聞いてる時間なんてないから?と、まぁどれもわかる気がします。
基本的に、「相手の考えていることや感じていることはわからない。」という部分は共通認識が必要だと思います。
もちろん、オムツがタプタプしとるな~とか、おもちゃ取られたな~とか、お腹減ったんだろうな~とか、なんで泣いているかなんとなくわかることがあります。
その時に声をかけますよね。「オムツ替えてきて」ではなく、「オムツ替えて気持ちよくなろうね」と言葉かけをするんですね。
子どもをなんとなく見てると、わかるんですよね。そうなんです。子どもが何を言いたいか?保育者にはすでにわかっているんです。
なんだかおかしな話になってきたと思いませんか?子どもが意見を表明する権利であるアドボカシー。でも私たちの日々の関りでは、子どもアドボカシーとは、子どもは泣いているだけで、保育者は勝手に理解しているんです。理解出来ちゃうんです。
「この子のことは、私が一番わかる(0歳からずっと見てるもん)」
「この子はこうなのよ(昨日もそうだったから)」
本当にそうなんでしょうか?先に書いたように、わからないんです。わからないはずなのです。
ここに落とし穴があるのです。
きっとこの子はこうだろうな。こうしたいんだろうな。と、思い込んでしまうと危険なのです。
確かになんとなくわかることもあります。流れの中でいつも起こることもあります。また、一日の流れもあります。なので、思い込んでしまうのは仕方のないことです。
これです。流れ・・・。これを気にするあまり、「~だろう保育」にならないようにしなければなりません。
結局は、相手(子ども)の気持ちはわからないことを前提にして、子どもをよく観察すること。そうしないと、アドボケイト出来ないのです。そうするしかない。子ども事をちゃんと見てないと、子どもの人権を守っていることにならない。と言うことです。
今こそ、傾聴
だからこそ、傾聴を学ぶ必要があります。言葉を話せないのに傾聴?と思われるかもしれませんが、真の傾聴とは、言葉以外のものを、くみ取ろうとして聴くのです。ノンバーバルの部分をとても大事にします。そして自分が感じたことを相手に返しながら、ゆっくりと共有していきます。「きっとこうだろう」「こうに違いない」とならない関り方です。
ノンバーバルの部分から何かを読み取ろうとするためには、じっくりと観察をしていきます。目に見えるもの以外にも、声、体温、空気・・・。たくさんのものを感じます。
そして、その感じたことを言葉にします。傍にいる保育者と共有します。二人が三人になり四人になり・・・。みんなで対話をします。そして、この子が伝えたいこと、思っていることはこれかもしれない!と到達するのです。
ジャジャーーーン!!! ハイ無理!!!!
そんなこと言われても・・・・。
私も書きながら、難しいな~と思います。
現場で出来ること
その為にも、デイリープログラムはゆとりと隙間があるものにしないといけません。環境設定もゆとりがあるものにしないといけません。
日課を変えることや環境設定を変えることを盛んに言われていますが、全ての理由がここにあります。
子どもの声を聴くために、みんなで対話をする
このことを理解しないまま、何かを変えようとしても、それは「大人主体」の保育になってしまいます。
日々、現場では色々な取り組みをしていると思います。でも難のためなんでしょうか?その答えの一つになると思います。
環境を変えることが目的になっていませんか?デイリープログラムを変えることが目的になっていませんか?
まとめ
罠と書いてしまいましたが、現場で起こっている課題についていろいろと書いてみました。
今の保育には、子どもの人権を守るために、子どもの声を聴く。そして、みんなで対話をする環境設定をすることが求められている。
このことを忘れないことが重要です。
これからも子どもを真ん中に置いて、日々の保育実践を充実していきたいですね。
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