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シンプルに、子どもたちによりそうこと。【教育を本質から考える】

「きょうそうけんニュース」というのが小学校で配られたようで、僕の息子が持って帰ってきました。

その内容がなかなかに本質的な内容が書かれていて、かなり心打たれた。

宿題は必要なのか?ということに関する話題の中で書かれてたこと。その中で僕がめちゃくちゃ共感したことがあったので、引用させていただきます。

宿題をめぐってもそうですが、最近は本当にいろいろなことに翻弄されている感じがします。

「自学自習」だとか「主体的な学び」だとか「個別最適化」だとか、それぞれの理念はいいことなのですが、その度に直接教育とは関わらない仕事は増える一方で、なにせ人も時間もなくて余裕がないので何のためにこんなに忙しくなっているのか自分でもわからないような、ちぐはぐさを感じます。

もっとシンプルに、子どもたちの教育・学習によりそえる余裕があればいいなと常々思っているところです。

きょうそうけんニュースNo.6


方法に囚われて、本来の目的を見失ってる

きっと一つ一つの方法はいいことなのかもしれないけど、仕組みが複雑化、手順が増え、やるべき項目も増えていく、そういう余計なやることばかり増えて、時間ばかり取られて、何がしたいんだかわからなくなる。

もはやこれは教育だけじゃなく、仕事でもそうだし、世の中全体がそんなふうになってる。

シンプルに、シンプルに、していって、みんなでよりラクに余裕をもって暮らせるようにするのではなく、経済を回すことと引き換えに、より手間を増やして、より工程を増やして、より仕事を増やしていって、みんなで互いに忙しくしあって疲弊している。

でも、これって結局のところ、方法に囚われてしまっているがゆえに、本来の目的を見失っている状態なんだよね。

あれをやったら上手くいくかな?これをやったら上手くいくかな?と方法を探すのでなく、なぜそれをやるかという目的から逆算してかないと、こういうことになってしまうというのは、なんかすごい〝あるある〟な気がする。


どうしたら、シンプルに子どもによりそえるか。

じゃあ僕らはどんな目的を持つことでシンプルによりそえるのだろうか。

たぶん多くの人が教育に行き詰まるのは、目的が学力を上げる、規律やルールを守らせる、そういうことで止まってしまっていて、その先にある人間そのものが見えなくなってしまっているから。どう学力をあげる?どう規律を守らせる?で止まってしまう。
学力や規律というものじゃなくて、今度は主体的な学びや個別最適化をして、、、っということも、それ自体が良く見えてもその先にある人間を見ないと、どう主体的な学びにしたらいいか?で止まってしまう。
なぜそれをするか?という、その先の目的まで考える必要がある。

そもそも、なぜ教育するのか?を考えることは、どんな人になってほしいのか?の裏返しであり、結局のところは子ども、いやその先の子どもが成長した大人という人間そのものが、どうあってほしいか?という問いであると僕は思う。

僕は、みんなが笑顔で活き活きと暮らしてほしいと思う。それこそが本来の目的なのではないか。

勉強によって苦しんだり、比較や競争によって追い詰められて鬱になったり自殺したりということがないこと。いまを笑顔に、将来も笑顔に生きられること。

本来の目的があれば、それを基準に判断できる。

自らの行いによって、

笑顔を守れるのか?

そうでないのか?

きっとそのための方法は一つじゃなくて無数にある。そのどの方法を選択しても良い。だけど最終的に笑顔を守れるかという基準だけ持っていれば、シンプルによりそえるんじゃないだろうか。

最後に、、

きょうそうけんニュースの中にあった一コマ。

うん!のび太の言うとおりだ!笑


▼だかひ研究所って何?という人はこちらをご覧ください!


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