『絶対者自身の倫理』
倫理とは何か。神智学的には、倫理とは神の中身であると言えよう。今までの議論を踏まえれば、倫理とは、世界を象る元型である。倫理を信じない人がこの世には沢山いる。倫理とは何か。全然分からないのである。法律と同列に扱い、社会を機能させるための掟に過ぎないように考える者もいる。実存主義やニーチェ(を研究する者)は、善悪や倫理というのは、実存的主体には何ら関係がないように語る。つまり、そのような倫理は実体のないようなものになってしまう。私もかつては、倫理というものが信じられなかった。
私のかつての立場は唯物論であった。唯物論的に殺人を記述するとすれば如何だろうか。身体をバラバラにするという行為も、物理的な概念のみで記述しようとすれば、ただ物が破壊されるというだけに過ぎない。ここには心理的な物語が捨象されている。フッサールが論理主義を取り、その流れを引き継ぎ、西田は世界を徹底的にロジカルに物語った。しかし、私は思う。そのような世界観はどれだけ貧相な意味を持つだろうと。
殺人鬼の歴史を知る人は多いだろう。大抵の殺人鬼は、幼少期にとてつもない虐待を受けている。彼らの世界は意味の危機に瀕している。この場合、意味とは神の秘する意味を意味する。井筒の図を思い出して欲しい。阿頼耶識に胎動する意味、換言すれば、形而上的な意味が、殺人鬼にはほとんどなくなっているのである。殺人鬼の世界は無味乾燥としている。人が痛いと感じてれば、苦しいと感じれば、それに感応するのが人の精神である。心理的にはこのような事態を同情と呼ぶのだろう。ただ心理学的なものには、欠如しているものがある。心理学というのも、今や、自然科学的な手法で営まれているということである。ユングは少し異なる。現今の心理学では、同情というのは、単なる身体的な反応になってしまわないだろうか。要は脳の反応に過ぎない。しかし、そんな生理的な様相によって、自らを律することが出来るだろうか。もしも、性欲が溜まりに溜まって、この先、性欲をぶつける相手がいないとしよう。この時、身体的な反応により、同情が起こるなら、同じく身体的な反応である、性欲をどう処理すれば良いのだろう。
倫理的な選択に迫られる時、功利主義でも対応出来ないのなら、当然、私たちは義務的に倫理を行使せねばならない。義務的に倫理を行使するならば、カントの言う通り、ただ意志によってのみ、自らを律する必要がある。しかし、意志とは何だろうか。私たちはすでに、リベットの意志を批判し、潜在的な魂を看破している。そこには意志が働いているはずである。潜在的な心理とは、フロイトが言うように本能が蠢く場である。ここで、先ほどの問題が出てくる。果たして、潜在意識に魂が在り、-私が再三言ったように、情動的な、物理的に言えば、エネルギッシュなーその力こそが意志だとしても、性欲と同情という、拮抗する力をどう考えれば良いだろう。西田はそこに一定の応答を与えている。いわゆる、小なる欲求と大なる欲求である。私たちが、自らの魂に掛かる力を直接経験する。このことにより、どちらの意志(力)が優るかを感得する。畢竟、ほとんどの場合は、これによって倫理を遂行することが出来る。
ただ、問題がある。殺人鬼というのは、ほとんど自らの環境とその歴史によって、自らに胎動する幸福なエネルギーを、蝕まれていった者たちである。彼らは環境から幸福な精神に感応したことがない。そのまま歴史が象られれば、幸福な精神に出会っても、それに呼応することもなければ、交感することもない。
殺人をしてはいけない、という抽象的な、精神的な種子を芽生えさせ、それを言葉にすることすらない。ここには神の秘するものが働いていない。そもそも、人に大切にされたことがなければ、人を大切にするという精神が発現することはない。倫理的な精神というのは、しばしば言われるように、相互に働き合うことで、養われるのである。これを私は精神感応と呼ぶ。現今のテレパシーの概念とは、一線を画すものであることを付言しておきたい。
そして、果たして私たちは、本能的エネルギーに打ち勝つため、どのような精神を必要とするのか。そしてまた、本能的エネルギーすら、最早ないに等しいものは何に従えば良いだろうか。結論から言えば、それは絶対無的意志である。例えば、性欲が溜まりすぎて、同情する思いよりも、自らの欲求の方が勝ってしまうとしよう。その時、私たちは神を信じる他ない。神を直感する、或いは直接経験する、或いは神と合一する、と言えば良いだろうか。何も意味のないところに、精神を置く。絶対無の場に精神を置くのである。それはそこで座禅をすると言っても良いだろう。ここに意志を置くことで、最早、どこに意志(力)が向かうのでもない状態を作り出すのである。これを瞑想と呼んだりもする。これが意志によって自らを律する、究極の力である。
そうしてみると、永遠に絶対無であれば、私たちは永遠の平和を手にするのではないか。この誤謬は、様々な物語で試論されている。『NARUTO』や松本大洋の著作『ナンバー吾』、『エヴァンゲリヲン』、探せばもっと沢山あるだろう。皆、一つになることで、平和が訪れるだろうという理屈だ。しかし、どの物語も、この理屈には抗っている。エヴァンゲリヲンでは、最後に統一する働き(人類補完計画)と戦うために、ドイツ語で意志を意味するヴィレという組織を作る。
確かに、全くの一つになってしまえば、争いは起こらないだろう。しかし、ここには多様性がない。多様性とは、個々の実存のことである。実存主義にとって、先ず必要なのは、ニーチェ的な意志だろう。既成概念も、固定観念も、破壊すること、それは必要である。その果てに、絶対無という究極的なニヒリズムが待っている。翻れば、それは神の意味であり、意義である。ここからどう生きるべきか。この無の場に意味を創造的に想像するのである。しかし、そのためには、無の場所と言え、最小限の動きを認めなければならない。それを私は揺らぎと呼ぶ。そしてまた、宇宙の始まる前にある、物理的にも最小限の動きである。それは神自身にもどうすることも出来ない、神自身のエネルギーである。従って、この世界の元型でもある。
この元型は翻ってみれば、働き合うことである。~には二つの力がある。他の勢いを殺し、自らが生きようとする力である。しかし、その自らはまた他に殺されようとし、他は生きようとしている。この働き合いを、精神的な次元で言語化すれば「correspondence」と言うことが出来る。非常に便利な言葉で、この単語一つで、照応、呼応、感応、交感などを意味することが出来る。つまり、働き合うという言葉では、単なる反応というニュアンスが強くなるのだが、呼応や、感応であれば、より合一する意味が強くなる。
人を殺すということの、抽象的な意義は、人に呼応しないということである。さしあたり、精神分析的な意味で、抑圧することと解釈して良いだろう。ここには愛の意義も含まれている。世界に押し殺された、無数の呼び声に応えること、これが精神的な意義を持った倫理の原則である。文豪というのは、亡くなった声を文字にして蘇生する者だと言えよう。
昨今のSNSにおいて、承認欲求というものが話題になる。しかし、これは事態を矮小化していないだろうか。承認欲求と言って冷笑する知識人は多いが、実はさらに根深い、呼応欲求というものが、全ての魂を持つ存在にはあるのではないか。
知識人は、当然、実存というものを重要視する。主体と意志を重視し、自らを律しようとする。絶対無という領域を知った哲学者なら、ほとんど無敵であろう。しかし、私はそれに懐疑的である。いくら絶対無という次元があろうと、私たちは心身を持った実存者である。実存者は神ではない。宗教というものに懐疑的になるのは、精神論や観念論に行き過ぎるからである。心身性がない。魂を綺麗にすることを重んじ、性欲をなくそうとするが、心身というものを忘却してしまっている。この世には絶対的なものもあるが、相対的なものもある。そして相対的なものが、他者に対する暴力を禁ずる。なぜなら、自他というのは感応し、呼応し合っているからである。それを私たちは象徴を以て、照応関係によって、理論的に知ることが出来る。自他というものが、どこまでも働き合うからこそ、そこには感応というものが実在する。それだから、他者に対する暴力というものを禁ずることが出来る。これは全ての環境に当てはまる。
それならば、何が暴力的でないのか、何が優しいのか。何がこの精神的エコロジカルを成立させるのか。これを私たちは、西田が開発したように、力の直接経験によって感得し、言葉にしていかなければならない。
他者に対する暴力が禁じられるなら、人という実存者、その力強い他者性を殺めてはならない。こうして絶対自身の倫理が喚起される。