『二重の実存』
実存とは何だろうか。本当の私は私というものを抽象化した先にあるのだろうか。それとも具体的なこの私こそ、私なのだろうか。先に触れたように、私には大我と小我がある。大我というのは、とどのつまり神や絶対者、不易のものを指すので、あまり問題にはならない。人間が何をどう考えようと、不易は不易であり、絶対者は絶対的である。ここで井筒の意識の構造モデルの図を挙げておこうと思う。私はこの図を見てから、折に触れてはこの図を表象しつつ、物事を考えてきた。実存において重要なのは、とりわけ現代人に欠けている観点は、阿頼耶識における主体である。これをスーフィズムでは神名と呼び、神智学を少し学んだ者なら分かる通り、元型とも呼ぶ。私とは何か。その一答案として、私は元型を挙げたい。
私を規定するもの、この実存の根拠、根源として、私の元型がある。では私の元型とは何だろうか。『哲学の歴史』で見てきた通り、具象と抽象は一つのまとまりである。具象は抽象を象り、抽象は具象を象る。鶏が先か、卵が先か、という問題もあるが、そもそも抽象と具象にフィジカルな因果関係はなく、したがって時間的な前後関係はない。つまり抽象と具象は共時的に存在する。私という主観を持つものは、ある程度は心理学的な考察で明らかに出来る。しかし、心理学というのは、あくまで心理主体を分析するに過ぎず、客観性や物的証拠に乏しかった。そこで体癖論が役に立つ。さらに言えば、体癖論と心理の照応関係を明らかにするために、神智学的観点、及び神智学的諸概念が必要になるのである。
現今の哲学では、未だ心身の関係を明らかには出来ていない。科学的な前提を是とし、そこから論理展開すると、当然の帰結なのである。そこに批判を加える哲学者は歴史上、何人もいたが、いずれも十分な説明を与えるに至らなかった。いずれも阿頼耶識に対する考察、換言すれば、潜在意識に対する考察が足りなかったのである。
科学的な概念や、表層的な意識に対する考察にのみ焦点を当てれば、私というのはせいぜいフィジカルなこの肉体か、意識のある領域であるかに過ぎない。脳であるという説明も畢竟、肉体の一部に焦点を当てているだけに過ぎない。自然科学の領分では、脳というのもフィジカルなものであり、換言すれば肉体に過ぎない。結局はメタフィジカルな観点に欠けているのであり、形而上的な言葉が足りないのである。
表層的な意識というのも、脳に規定されている。再三に渡っていうことになるが、脳の発達と共に発達したのが意識の機能である。意識の機能の発達と共に、私たちの意識が濃くなり、鮮明になり、私たちの意識における世界が開けているのは明らかである。これを表層意識と呼ぶ。永井均の議論は表層意識の分析、及び無内包の領域に留まっていて、そこに内在する問題を明らかにすることが出来ていない。
井筒の示す図とは異なり、永井の示す構図には層というものがない。0地点から開闢する世界、その記述に留まっているのである。だから、突然世界が始まっているという記述にしかならず、そこには歴史性がない。永井の記述においては、実存が中心となっているのであり、そのように帰着するのは仕方がないのだが。歴史というものの下らなさはあるのだが、永井の記述では世界を記すには不十分である。つまり、無内包のところから、実存者が飛躍的に膠着しており、そこにまるで説明を与えられていないのである。結局、超越論的哲学を考察し、内属性のようなものを考えているのだが、神秘主義思想はすでに元型という概念で、それに説明を与えている。時代の流れを考えると、仕方がない面もある。ウィトゲンシュタインに始まり、大森荘蔵は自分で考えることを奨励した。そこに習う、野矢茂樹、中島義道、永井均などの思想家は、哲学史というものに、信用を置いていなかった。世の中は二極化しているようにも思う。専ら自分で哲学する者、専ら哲学者を研究する者。
閑話休題。永井均に足りなかった実存の考察に対し、井筒の意識の構造モデルはどのような示唆を与えているのだろうか。それが阿頼耶識と中間領域という観点である。言い換えるなら、絶対無(無内包)と具体的な実存との間の存在である。というより、絶対無と具体的な実存には何ら関与しない。関与しないのだから、そこにどのような関係があるのか、と問うても仕方がない。永井均の考える問題は、文字通りナンセンスだった。むしろ関与しないほど、絶対無と実存は全一なのである。
しかし、永井はロゴス偏重主義であったので、絶対無と具体的実存を全一にする術を持たなかった。つまり、現今の論理では、〈私〉と「私」の関係を説明し切れないのである。つまり、ここには異なりながら合う、というレンマ的な観点が必要なのである。この点、西田は矛盾的自己同一で説明しようとしている。しかし、西田にはない観点がある。西田は異なりながら合う、という論理を確かに言語化した。しかし、阿頼耶識や中間領域に関する記述は欠如していた。松岡正剛はこのことを看破していた。曰く、西田の多に対する記述には不満があったようだ。西田には元型と中間領域の観点がなかった。
具体的実存を抽象化したもの、それが私の元型であり、私とは何かに答える、一つの案である。それをスーフィズムでは神名と呼ぶ。平易に言えば、MBTIで言われる「仲介者」「論理学者」「幹部」などは、それに類するものである。言うなれば魂の名前が神名である。しかし、気を付けなければならないのは、これらは抽象的であるということである。抽象的であるということは、そもそも固定化されていない意味であるということなので、これらは仮名であることは念頭に置いておくべきである。仮名、つまり、仮の名であるということである。抽象的な言葉というのは、具体的存在とは範疇を別にするのであり、そもそも融通無礙な領域のもの、つまり、これらは固定化されない領域のもの、極度に動的な存在なのである。ウィトゲンシュタインが悩んだ言語の曖昧性というのは、ここに根拠を置く。あらゆる言語は抽象性を持つ。というのも、言語は具象であり、その意味は抽象的なものであるから。ウィトゲンシュタインの悩んだ曖昧性は、具体的な言語を保ちつつ、言語ゲームの中で稼働するための、語の元型を考えることで解消する。ウィトゲンシュタインは曖昧性に肯定的だった。しかし、その曖昧性がどのように働いているのか、その限界を気にしていたのだと思う。言語ゲームに必要なのは魔法という法だった。カオスな場で働く法だった。
閑話休題。私とは何か。それは私の元型である。ここまでは良いとして、では私の元型の根拠はどこにあるのか。先の話に戻ろう。具象と抽象は共時的に存在する。ここでは、どちらがどちらを導出しようが、循環論法にはならない。ある意味成っているのだが。しかし前後関係がないのなら、相互的に導出を行おうと、何も問題はない。むしろ、相互に働き、お互いを物語ることで、具象と抽象を顕現させていくことが出来るのである。この相互の
働き合い、ここに掛かる力が中間領域である。井筒の図で言えば、阿頼耶識には抽象的な元型が蠢いている。この元型の蠢く幽かな力が具体的な存在に降り注ぐ。この中間領域にある力を理解する器官を人間は持っている。それがコルバンによって言語化された創造的想像力である。
私たちは精神という抽象的な存在を持ちながら、身体という具体的な存在を持っている。身体という具象に宿る物語を、想像的創造力を持って顕現させることにより、自らの具体性に宿る抽象性を浮き彫りにする。このことによって、私の元型を探求するのである。この技術はすでに体癖論によって理論家されているので、自分の元型を知りたいのなら、身体への理解を深めることをお勧めしたい。体癖論とMBTIはある程度、重なっている。どちらも使うことで、さらに自らの元型に対して理解を深められると思う。
MBTIの方は人格に名前を与えているのが、有意義な点だろう。提唱者や仲介者など。あれ自体は素朴な表現ではあるが、換言すれば魂の名前である。私とは誰かという問いに対して、こう考えることも出来る。自分が何者か知りたければ、自らの魂に名前を与えれば良い。魂に名前なんてないのだが、仮名という言葉もある。名前を仮に付けてしまえば良い。そもそも言語とは全てそういうものなのだから。
もし、MBTIの言葉が腑に落ちないのなら、スーフィズムを参考にすると良い。スーフィズムには少なくとも100を超える神名(魂の名前)がある。