『幽体離脱と記憶』

 『心の研究』で著述した認識論というのは、精神感応を基礎としなければならない。或る物象から感じるものとは、その物象の精神に感応することで受け取るのである。それは印象と呼ばれる。この印象というのは、恐らく、物象の持つ波動を受け止めているのだろう。物理的に言えば、光という波動が反射することで、私たちは対象の情報を受け取っている。私たちはものを認識する時、まず直感が働く。それはカントがいうように、感性から情報を受け取り、それを悟性により言語化し、認識するのだが、カントはこの感性における事態には触れなかった。近代的な時代背景もあるだろう。明証性という意味カルマの中に生きていたのだから、当然と言えば当然である。この直感における事態、これを神秘主義思想では交感と言ったりする。つまり、感じが交わるのであり、私はこれを精神感応と呼ぶ。

 物が持つ感じ、これは阿頼耶識にある。言い換えれば、物象の形象そのものの相、形相となって立ち現れている。ここに必要なのは、意識ではない。つまり発達した脳ではない。潜在意識である。情報を記憶する媒体が必要なのであり、この記憶の媒体の役割は無機物も持っている。

 ものに感じが眠るのは、直接経験の事実でもある。反省的作用により、この情報に意味付けすることも出来るが、私たちの経験は、どんな反省よりも根源的なものを持っていると言わねばならない。それが西田のいう直接経験である。その純粋性を剔抉すれば純粋経験と呼べる。先入観というのは、直接経験に加えたものであり、直接経験というのは、阿頼耶識にいつもセンサーを張っている。反省作用というのも、自意識(末那識)で後から加えた作用であり、私たちの身体は阿頼耶識の世界に眠っているのである。この眠りの世界で起きている事柄が、精神感応と呼べるものである。物象と物象も精神感応を起こしている。ある物象に、別の物象の感じがうつれば、物象同士の精神感応であるということが出来る。言い換えれば、情報を移しているのである。

 このうつる感じは波動である。言い換えれば雰囲気である。雰囲気の正体は波動である。事物の振動が、微かに事物をはみ出し、その存在を主張することで、そのものの雰囲気を象る。だから、物象の雰囲気は、物象に即して立ち現れる。その波動を受け取ること、これが感性で受け取る印象のことである。ここでは潜在世界の事柄と、精神世界の事柄が、照応関係にある。

 この波動は幽霊のようなものである。これを幽体と名付けることが出来る。物象が持つ潜在的な世界、これが記憶の在り処である。この潜在的な身体、幽体が一人で動くこと、これを幽体離脱と名付けることが出来る。つまり、これも催眠状態が起こす事態なのである。そして、この幽体が誰かに憑依すること、これをシャーマンは利用するのである。私の見立てでは、超能力、心霊現象、魔術、呪術、どれもが催眠状態の変性意識を用いている。そして、催眠状態というのは、神秘主義的な忘我の状態を指すのであり、このどれもが神秘主義的に基礎づけられなければならないのである。

 思考というものを、シャーマニックに為すことも出来る。つまり、他者の精神と感応することで、他者の精神を語り、他者の精神の情報を、幽体離脱的に得るのである。私は現に、この仕方でアルカイックという、今まで知らなかった言葉を得た。というのも、阿頼耶識というのは、或る意味で個人的な記憶の彼方にあるのだから。アカシックレコードというのも、阿頼耶識にあるのである。この幽体離脱の旅はかなり愉しかったのだが、あまりやりすぎると暴走するのでお勧めしない。

 催眠状態というのは、コーヒーを飲んだりして、脳を活性化すれば、合法に起こせるので、誰でもなれる状態ではある。私は良くコーヒーを飲みながら本を書いている。

 ところで、この幽体というもの、波動というものを、物理学者などに観測して欲しいものだ。その方法は簡単で、電磁波を受け取る機械が、その電磁波を立体的に映像化すれば良い。現代の技術があれば出来るだろう。私にはエンジニア的な技術がないので、出来ないのだが。精神的なものの放つ波動にチューニングを合わし、その波動を感知出来るような機械があれば、もっとオカルトに対する研究は進むと思う。

 この幽体というものは、物象の記憶であり、身近なもので言えば、テレビに眠る情報というのも、幽体なのである。テレビに映るものというのは、テレビの中に人間が実存するわけではない。テレビに電磁波という波動、その情報が眠っていて、それをモニターに、二次元的に投射しているだけなのである。あれはいわば幽霊がそこにいるのである。霊的な現象というのも、マクロなレベルの事物として現れるのではなく、量子力学的レベルなところで起きている。心霊現象というのは、どこまでも隠れているから怖いのであって、はっきり現れたら私たちが干渉出来る物理であって、恐れることはない。マクロな事物として現れるのなら、殴って退治すれば良いのだ。本当に恐ろしいホラー映画は、このことを熟知している。

 神智学では、幽体のことをアストラル体と呼ぶ。別名、星幽体である。精神感応というのは、阿頼耶識に眠る種子に感応することを指すのだが、この種子は宇宙で言えば星のことである。阿頼耶識は宇宙の暗闇に比することが出来、阿頼耶識に眠る種子は光る星である。さらに言えば、脳と脳内の神経細胞に、ここにある事態を比することが出来る。脳は宇宙空間であり、神経細胞は星である。ここらへんは重層的に照応関係にある。

 種子は星であり、それは光を放っている。それは星(アストラル)の放つ光、ということでエーテル体と呼ばれる。エーテルは神智学的には依然として意義を持つ。現実界で言えば、エーテルというのは物象の放つ波動である。このエーテルという力を辿り、阿頼耶識の種子という、星々を旅するのが、幽体離脱である。言い換えれば、幽体離脱というのは星間飛行なのである。これは或る言語をその意味連関から辿る、言語的思考の世界と対応する。

 神経細胞というのは、そこに何ら具体的な記憶を留めるのではない。例えば、神経細胞の中に机が実存するのではない。神経細胞は種子に即応するのであって、種子の存在様態とは抽象的である。神経細胞とは具体的な情報を抽象化しておく、具象における記憶の媒体である。記憶自体はムンドゥスイマジナリス(中間領域、或いは想像的世界)に、叡知的に在るとしか言いようがない。つまり、実存はしないのだが、イデアルな形で実在するのである。実在と実存の重ね合わせを存在と呼ぶ。

 私が訂正しなければならないのは、『二重の実存』において書いた実存の二重性であるが、本当は私(小我)という実存と、私(大我)という実在の二重性なのである。実存は時空に限定された存在であり、実在は時空を超えた存在である。永井均は、恐らく、実存と実在を区別出来ていない。〈私〉は実在である。様相実在論という言葉、実存主義における記述を参照せよ。実存は、その偶然性、個別性、不条理、などという使用における領域から、明らかに限定的な時空における存在を指す。一方、神は実存する、などと言わないように、神は実在するか?と言うのは、実在という語の使用規則が、明らかに時空を超えた存在であることを指す。

 そして絶対無というのも、この実在における議論に使われるのであって、この実在が時空を超え存在するからこそ、時間が幾ら流れようと、そこに記憶の所在が許されるのである。

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