『照応・呼応・感応』

 今回は、私の考える魔術や呪術の原理的な事柄を書こうと思う。大きく分けて三つの原理がある。照応・呼応・感応である。

 まず、私たちは魔術や呪術を考える時に、照応関係を見出さなければならない。照応関係とは、理の世界、事の世界、或いは理事の世界の、どこにでも成立する関係である。例えば、詩において、比喩というものが、幾許かの魔力を持つ。比喩というのも、照応関係が前提になっているのである。単層的な記号は、ただの記号であり、そこに練られた力というものは感じ取りにくい。ただの記号はただの物理的な、インクや音声でしかない。しかし、記号と何か他の事柄を重ねて考える時、そこには唯物的な作りに留まらない、力があるわけである。この物理の範疇に留まらない力を、魔力や呪力ということが出来る。

 例えば、カバラのセフィロトにおけるセフィラというものも、この世と照応関係にあるのだが、前に述べた通り、セフィロトのセフィラは体癖論の十種の身体の構造に照応する。例えば、私は体癖論でいう六種に当たるのだが、六種に照応するセフィラは、イェソド(基礎)である。体癖論でいう六種は揺らぎという心身性を持つのだが、私の優柔不断な人生、意志薄弱な自分を省みれば、この揺らぎという心身性も自分にとっては理解し易い。同時に、私には基盤というものがない。芯となるものがないし、中心というものもなければ、何か地に足がついているような感覚もない。仏教徒にはこの感覚がよく分かると思う。つまり、主体性のなさ。自我のなさ。仏教徒の無主体論は、六種の心身性に基づいていると思われる。私が哲学をしているのは、確固足る地盤が欲しいからでもあった。もちろん、哲学をすることで、却って地盤がなくなることもあったが。この基礎というものの意味連関には、根本というものもあるだろう。私には根本というものがない。それは無底という言葉で言い表せるだろう。だから、私は根本や基盤、基礎といったものがない中で、どうにかこれらを考える必要があった。そして、世界の最も基礎、基盤に当たるもの、すなわち根本を探求するに当たり、最も古典的である神秘主義思想を探求しないわけにはいなかった。神話や宗教、神学といった、神に関するもの、これが私の運命の物語である。

 こうして、私の人生において、基礎や基盤、根本といったものは、精神的に反復せざるを得なかった。呪文のように。カバラのセフィロトにおけるセフィラは、一つ一つが、実存する生き物にとって、魔力や呪力を持ったものである。体癖論における、或る種の体癖は、一人につき、必然的に何か一つは持っている。その体癖に照応するセフィラは、その人の人生において反復され続ける。実を言えば、そうして皆、呪文を唱えているのである。

 そしてまた、遠隔視というものがあるが、これも世界の照応関係を利用しているのである。一つの物質には、何等かの種子がある。痕跡がある。それは物質の記憶である。『心の

研究』で述べたような、火山付近の石は火山の意味連関の中にあり、その種子が石に薫習されている。黒々として、ゴツゴツして、厳めしい、というように。例えば、この石を持ち帰ってみても、パッと見ただけで、火山付近の石であることに気付く人はいるだろう。これが遠隔視の原理である。何らかの物質に薫習された種子を基に、その背景にあるものまで見てしまうのである。これは世界の照応関係に基づくわけである。

 こうしたオカルトチックな概念は、近代的な科学の発展にしたがって、排斥される一途を辿る。超心理学という言葉にもあるように、何だか超常的な現象だという印象を持たれている。しかし、オカルトチックな概念は、実は、日常に深く根差した概念だと言わねばならない。精神感応というものも、古代ではそれを議論することがあった。人と人の心が交わることをプラトンも哲学していた。他我というものを、全く超越したものとして考える考え方は、実は科学の発展にしたがい、唯物論的に捉えている考え方であり、諸オカルト的概念を捨象してしまったが故に、起きた弊害なのである。しかし、こうしたことを少しでも発言すると、現代ではスピってると言ったり、トンデモと言ったり揶揄することもある。私がこの書を

記すのは、こうした科学によって捨象された概念を、蘇らせるためでもある。神秘は日常から排斥されているのだが、本書では井筒俊彦が試みたように、神秘を日常に引きずりおろそうと企図するのである。実際、現代の語彙では、説明のつかない日常的な現象はたくさんある。毎度、私が出す例だが、他者が発する雰囲気を直接経験することを、唯物論的にどうやって記述することが出来るだろうか?これは精神が感応するという事態に他ならない。如何なる他者の対象の分析より早く、他者の情動を直接経験しているだろう。精神が感応するからである。

 さて、次に呼応の魔術を紹介しよう。まず、私たちは、魔術というものを精神的領野に、ある程度限定して考えなければならない。精神的領野とは、言い換えれば、意味の領野である。つまり、意味の場である。そして、私は井筒に従って、意味の場は意識の場と照応関係にあると言おう。呼応の魔術の代表として考えられるのは、セイレーンの召喚である。セイレーンは確かに、マクロな系において実存するものではない。ここでは意味の場における、セイレーンについて考えよう。セイレーンが事物として存在しないことは、もう常識だろう。そうしてセイレーンは転じ、神話的世界からサイレンという意味だけ残った。セイレーンの声は警鐘であり、警告である。今まで、私が何度も繰り返しきたように、一つの意味種子は、他の意味種子と呼応する。ここに意識の場が照応するなら、一つの言葉を記憶に留めた時に、それに呼応し、他の言葉が想起されるというように考えられる。つまり、私たちが何事かに、前もって警戒しておく、という意識現象は、セイレーンの意義が働いているわけである。セイレーンは事物として実存しなくとも、私たちの精神的な意義として残り続けているわけである。

 何事かに惹かれ、私たちがそちらに向かうということは多々ある。この時、呼応の魔術は働いている。それは感応する精神世界の話である。照応関係において、モナドロジー的な或る事物という一つの世界から、他の世界に飛ぶこと、これはまるで、宇宙にある一つの星から、他の星へ瞬間移動するようなことである。例えば、花を意識する時、世界は花である。そうしてモナドは窓を持たないわけだが、照応を行使することにより、モナドからモナドへと移動することが出来るのである。精神的な領野では、宇宙を旅するのが私たちの常である。

 何事かに惹かれ、星間飛行をする、その果てに私たちは対象と合一する。この合一の段階が感応の術である。西田の純粋経験というのも、オカルトチックに言えば、精神感応なのである。感応の面白いところは、こちらから相手に感応を飛ばす、という事態が発生することである。アクターが何某かを演技する。舞台にはそれほどセットはなくとも、私たちはアクターの行為から、その背景を創造的に想像する。この時、私たちの精神はアクターの行為に感応し、照応関係を自ら作り上げ、世界に没入するわけである。この時、私たちはアクターに対して受動的に精神感応しているのであり、アクターたちは私たちに対して、能動的に精神感応しているのである。これは催眠状態の時に発生する事柄である。普段は自意識という力が、ただ受動的に精神感応するという事態を防いでいるのだが、何かに夢中になり志向する時、自意識の結界は解かれ、対象に自ら合一しに行っている。個我を没することにより、一方的な精神感応が起こるわけである。

 しかし、言ってみれば、私たちの精神とは、いつも無意識の領野を多大に持つのであり、ニーチェのいう同情も、オートマチックに起こっているのである。私たちはオートマチックに起こる同情や精神感応というものを、止めることは出来ない。ほとんど無意識に人を呪うこともあるだろう。その呪いは、波及していき、ネガティブな世界を象るかもしれない。それは私たちにはどうしようも出来ない、エモーショナルな問題である。出来るのは、ただこの運命を愛するのみである。

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