マリオカートのたとえ、無敵の人の考察
僕は俗に言う"無敵の人"にかなり近い場所にいる。
だからこそ、無敵の人にならないように、たまに彼らについて考えることがある。
僕はもうじき三十路だが、まともな職歴は無く、恋人がいたこともない。
言わずもがな童貞である。俗に言う"無敵の人"候補生の中ではそれなりに期待のルーキーとしてドラフト上位に名を連ねているだろう。
勘違いのないように、まず最初に断言しておくけれど、僕は争い事や暴力は嫌いだし、戦争と性暴力はフィクション以外に存在しなければ良いと思っている。
そして寝取られと動物虐待はフィクションですら存在しなければ良いと思う。
犬が死ぬ映画とかマジでムリ。ハリー・ポッターでフクロウが死ぬのすらつらいから死の秘宝Part1を二度と見ないレベル。
まあ、良くも悪くも、あくまでウドの大木のような存在であると自負している。
しかし、それでも社会一般的な生活を送る人たちよりは、僕は"無敵の人"と呼ばれる人たちの側にいるだろう。
少なからず履歴書の上では似たような境遇である事が多いと思う。
だから、彼らがどうしてそのような考えに至るのか。
自分ならどのようなプロセスを経て近い発想に至るのか。
自身が無敵の人にならないための思考の予防接種として、一度しっかり自分なりの考えをまとめておきたいと思った。
既知の経験から落とし込んで、あくまで日常的でポップに、似たようなエッセンスの思考に至ったことはないか、極限まで薄めた最大公約数の近似値を探してみることにした。
そして、その経験は、思いのほか誰にでも体験がありそうな身近なところに見つかった。
マリオカートで、今回のレースでは勝てないからと、わざと他人の邪魔をした経験はないだろうか?
もちろん僕にはその経験がある。
レース1周目の中盤まで、自分は1~4位の比較的上位を順調に走っていたのに、少し操作をミスって場外に落ちたり、コウラにあたる不運に遭遇し、
6位、7位に転落する。
そこから、なんとか4位くらいに這い上がったところで赤コウラにぶち当たり、崖から転落して、戻ったところで立て続けに雷が落ちてきて、また7位に落ちてしまう。
レース2周目終盤、気がつけば自分の下にいるのは8位だけ。
8位の奴は、毎回レースでほぼ8位を取っているようなヘタクソな奴だ。
そいつはお情けでキラーを貰えるが、7位の僕がもらえる可能性は少ない。そして、序盤は上位を走っていたプライドが手放せず、わざと8位に落ちてキラーを貰ってまで今さら5位~6位を取り戻すことも気に入らない。
かといって手元に残るのは良くてスターか金色のキノコだ、今さら必死に頑張って操作をしたところで、もう4位にすらなれないだろう。
そんな最後尾に近い7位の2周目の最中、コウラ3個を引いた時、ふと思い至る。
「このコウラを3周目に通るヤツにぶつけたほうが今回のレースは最大限楽しめるんじゃないか?」
誰でもいい。その時点で1位~3位のヤツなら。
1~3位に当たればいい、そいつらの順調なレースが俺のように狂ってしまえば今回は満足だ。
それでこのレースの溜飲を下ろして、次のレースはもっと上手くやろう。
10年ほど前に、「黒子のバスケ」の作者が脅迫される事件があった。
逮捕されたその犯人の意見陳述文章を読んだとき、
「もしかしてこれは、行動を起こしてしまった数年後の僕の姿なんじゃないか?」と思った。もし、知らない人がいたらぜひ一度読んでみてほしい。
僕は、駅でナイフを振り回したり、電車で放火しようとする"無敵の人"の気持ちはわからないけれど、「黒子のバスケ脅迫事件」に関しては、"何かの歯車がほんの少しズレていたら、もしかしたら犯人は自分だったかもしれない"と思わせるような心理的な生々しさがあった。
犯人である彼にとって、たまたま黒子のバスケの作者が、いちばんその場で止まったり逆走してまでコウラをぶつけたい奴として映ってしまったんだと思った。
この事件で犯人がしたことは脅迫だったけど、他の"無敵の人"が起こした
殺傷・暴力事件だって、"誰でもよかった"と言いつつ"ただし、自分にとって1位~3位に見えるような奴であれば"というものが多くを占めているように感じる。
"無敵の人"が至る思考を、比較的にもっとわかりやすく一般化するなら、
「自分はこんな苦労をしたんだから、お前も苦労すべきだ」という考えが、最も深い根っこにあるのだと思う。
"自分が不利益を被ってでも相手を陥れようとする行為"を確かスパイト行動と言ったはずだ。
人の失敗を喜んだり、出る杭が打たれる姿を見て後ろめたい喜びを感じてしまうのは、人間の脳の構造上仕方のないことらしいが(シャーデンフロイデと言う)、肝心なのは自分でそれを具体的な行動に移さないことだ。
不幸や不運があっても、今回のレースではそれを含めて7位程度の存在であることを自覚して、攻撃性に転化しない。
運も含めて実力であると、受容する。
もちろん他人に言われたら気に食わないし反発したくもなるけれど、
自分自身では、しっかりとそのことを理解しておく。
そして、そのことを受容できる自分に精神的な美しさを見出して、
そこに関してはちゃんと自分を褒めてあげる。
運が良い人間、才能のある人間を羨んでも良いし、妬んだって良い。
どうしても気に食わなくたって良いし嫌いになったって良い。
嫉妬の力を自分の努力の燃料に変換できなくたって良い。
それを実際の攻撃性・加害性には転化しないことが、何よりも大事なのだ。
この"最後の美徳"を失った時に、"無敵の人"になってしまうのだと僕は思う。
だから、無敵の人に近い僕は、あるいは僕たちは、
たとえ今さら頑張ってもどうせ6位にしかなれない立場にいたとしても、
金色のキノコを連打するべきなのだ。
どんなにみじめで情けなくてカッコ悪くてもそうするべきだ。
自分が勝つためじゃない。周回遅れのコウラ3つを、うっかり逆走して投げつけないように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?