17歳の僕の自分史~精神的セルフネグレクト~

僕の高校には卒業文集がなかった。
そのかわりに、パソコンを使う情報科目の授業にて、Wordを使って自分史を作成する「卒業前に自分史をふり返る」という最終課題があった。
ふと思い立って押入れを掃除していたら、忘れられて黄ばんだクリアファイルに"それ"が入っているのを発見してしまったのだ。

それを書いてからもう12年以上経った。
読めば悶え苦しみ、後悔すると分かっていながらも、17歳の僕の文章力と、17歳の僕がリアルに感じていたことを覗き見したい好奇心が勝ってしまい、おそるおそるページを開いた。
高度にプライベートに関わる情報は伏せるものの、誤字や脱字、表現もそのまま、セルフネグレクトの一環として文字に起こしてみることにした。


199◯年◯月◯◯日生まれ、◯◯座、血液型A型 横浜生まれ横浜育ち。
好きなもの:ゲーム インターネット
嫌いなもの:野菜、勉強、掃除
名前の由来は~(中略)

幼稚園のことは近くの幼稚園の『◯◯◯幼稚園』という幼稚園に入った、
仲の良い友達もたぶんたくさんいたと思うし、よく覚えている人もいる、幼稚園の頃から中学までずっと一緒の学校の人もたくさんいる。

当時から運動とゲームが好きで、よく友達と公園で遊んでいたりもしたけれど、家に帰ってきたらスーパーファミコンでドンキーコングシリーズでよく遊んでいた。
戦隊ヒーロー物やウルトラマンが好きでよく幼稚園の友達と『ごっこ遊び』をよくしていた。

幼稚園の年長さんから母親の仕事の影響でパソコンでちょくちょくペイントなどをして遊んでいたと思う。

たしかこのころに現在でも好きなゲーム、ポケットモンスター銀 と本体のゲームボーイカラーをおじいちゃんにトイザらスで買ってもらったことは今でもよく覚えている。

幼稚園の担任の先生に向かって間違えてママと言ってしまった恥ずかしさは今でも忘れることができない。
仏教の幼稚園だったので、毎朝よくなかなか良い感じの『じゅず』を手にはめて毎朝お経を唱えていた。

(中略)

小学校は一番近所にある『◯◯小学校』に入学した、このころに幼稚園のころから仲が良く同じマンションに住んでいた1歳年上の幼馴染の影響で、地域の野球クラブで野球を始めた、そしてなぜか英語塾に通って県道も始めて習い事をたくさんやっていそがしい子どもだった。

月曜日と木曜日は剣道 水曜日は英語塾 土曜日と日曜日は野球というなかなかハードスケジュールな生活を送っていた。
入学したてのころ、Y君、Nさんなどほかの幼稚園から来た人たちと最初に仲良くなってよく一緒に行動するようになったのをよく覚えている。

1,2年生の頃は特にイベントは『おいも掘り』くらいしかなかったような気がする。もしくは新しいことだらけで片っ端からイベントみたいなものだったのでよく覚えてないだけかもしれない。

3年生のころはもう立派なくそガキで、剣道、英語、野球のな日は毎日公園で友人と遊んでいたりした、友達もたくさんできていた、学校が普通に好きだったと思う。

4年生、担任の先生が理科ばっかりやるせいか、理科や科学が好きになった、いかにもアニメに出てきそうな理科の先生みたいな担任の先生だった。
このころに喘息で剣道を続けるのが困難になり、剣道だけはやめることになった。

5,6年生、毎年クラス替えがあって、いろんな人と仲良くなっていたので、話す人や遊ぶ人もだいぶ増えていた、剣道をやめた分遊ぶ時間も増えたので、家の近くの公園で毎日2クラス分くらいの人数で集まったりしていて、
その輪の中心でイケイケな感じなガキで毎日とても楽しかった。

5年生の頃に行った赤城林間学校と日光修学旅行はとてつもなく楽しかったことを今でも覚えている。男子とも女子とも仲が良く、女の子にもよくべたべたされていたかもしれない。今考えればわりかしマセたガキだったと思う。

クラブ活動はパソコンクラブ、委員会活動は保健委員会に所属していて、シャボネット(石鹸)をとりかえたり、風邪をひかないように呼びかける活動のようなものをしていた。
5年生の8月末、野球クラブの帰りに、公園で弱っている迷子の子猫を発見して母親に相談して病院に届けたものの、なんだかんだでこの猫は我が家で引き取ることになって今でもだらだらと毎日猫ライフを送っている。

小学校の卒業式、さすがに中学も一緒の人が多かったので、あまり泣いている人なんかはいなかった。数名の中学受験組みの皆に別れを告げたくらいの卒業式だった。誕生日が卒業式だったので、卒業式の後にゲーム機と携帯電話を買ってもらえることがとてつもなく楽しみだった。
しかし卒業式が終わった後にY君とその他女子に誘われ、ボウリング大会みたいなことをやった。結局誕生日プレゼントが手に入ったのは◯月◯日だった。

中学校の入学式、
自然な流れで『横浜市立◯◯中学校』に入学することになった。今までの幼稚園の頃から仲良かった友人や、小学校の頃から仲良かった友達に加え、他の小学校から来る人たちがさらに増えることがとても楽しみだった。

中学1年生、
さっそく他の学校の友達とも馴染んで他の学校の友達の友達などともどんどん知り合っていって、同じクラスの人たちともどんどん仲良くなっていった。

中学1年生になったこともあってか、さすがに公園で遊ぶことは少なくなったが、地区センターや夕方から駄菓子屋に溜まったりよくしていたし、夜になったらやっぱり公園で遊んでいたりもした。

部活は小学校から仲の良かった友達が入るという理由で、今まで小学生の頃は地域の野球クラブに所属していたにもかかわらずなぜか囲碁部に入った。

バスケ部の友人に当時バスケ部で流行っていたオンラインゲームに誘われ、いつの間にかパソコンでブラインドタッチで文字入力ができるようになったのはこの頃だった。

その囲碁部でも新しい友達ができて、その友達にバドミントン部がおおかったのでよくバドミントン部と遊んでいた。

修学旅行は長野へ林間学校的な2泊3日の行事があり、農家のお手伝いなどをしたが、内容はよく覚えていない。

中学2年生、
毎日学校が楽しかった。休日も夏休みも学校があっても良いと思えるくらい毎日学校が楽しかった、誰とでも仲良く、にぎやかに、楽しく過ごしていた。とにかく充実していた。だからその分、勉強をさぼってしまっていた。毎日遊びっぱなしで部活も楽しくて勉強なんかもはやどうでもよかったと思っていた。中学2年生はなぜか大きなイベントがなく、鎌倉遠足という0泊1日の行事しかなかった。

バレンタインデーのチョコレートを9個貰ったという人生最大のモテ期にしてバレンタインデーは男友達に暴行を加えられるという今考えればなんともリア充な生活を送っていた。

中学3年生、
おそらく今まで生きてきた人生の仲で一番楽しかった。
さらに友達も増え毎日遊ばない日はないくらいだった。毎日楽しすぎて放課後は遊び呆け、家に帰ってからはパソコンでオンラインゲーム。
今でもこの頃に戻りたいと思うことがしょっちゅうある。

この頃になるとまた小学生みたいな遊びをしたくなるのか、昼休みはよく男子数十人で集まって鬼ごっこを校庭でしていた。
それを教室の窓から女子が眺めてからかっていたのによく返事をして背後に鬼から捕まった。みたいなこともよくあった。
部活も順調でいつも部活中は基本遊んでいるにもかかわらず、人口が少ないためかあっさり囲碁の県大会に出場して、それなりの結果を残してしまった。

しかし7月頃に担任の先生に呼び出され、授業中の態度とテストの点数のせいで内申点がとても悪くこのままでは私立の高校すら合格することはできないだろうといわれてしまった。

我が家はあまり裕福ではないので、もし私立の高校に入学することになったら今の家を引っ越して父方の実家で暮らすことになると言われ、9月頃にはどうしても入りたくなかった塾に入れられてしまった。

しかし入れられた塾が本当に偶然、小学校1年生の頃からずっと仲良かったY君、Nさん、同じ学校のバレー部の女子が入学している塾で、あっさり塾に行くことが案外楽しくなっていた。
11月頃からは成績を上げるために生きがいとも言えるゲームとパソコンを受験に合格するまで親に没収されて、受験勉強のために自分の家では集中できないので父方の実家に一人で受験が終わるまでお世話になった。

しかし結局勉強はそれなりに捗ったものの高校見学には全くいかなかったため高校の知識が何もないまま学校を選ばなければいけなくなってしまった。

12月頃、母親がたまたま発見した高校で情報科というパソコンを使う授業が多いらしい◯◯高校の情報科というところを目指してみたらどうだ、と言われたので◯◯高校の情報科を目指すことにした。

高校受験前期、情報科の面接を受けたものの、予想していた通り内申点が足りなかったので落ちてしまった。その時なにを思ったかじゃあ化学も好きだし化学科でもいいや、と思い、後期は◯◯高校の化学科を受けることにした。

2~3月
滑り止めで私立△△高校を受けて、合格したものの、私立の学校に行くことになったら結局父の実家で一家が暮らすことになるため、公立高校へ合格しなくてはならなくて、◯◯高校へ行くために勉強を頑張った。

高校受験後期、
9月頃から勉強してきて、11月頃からはパソコンもゲームも封印して、毎日勉強したので合格する自身はあったが、筆記試験は案外余裕だったが、面接は苦手だったのでとても緊張した記憶がある。

それからちょっとして、◯◯高校に合格しているかどうか見に行った時、すでに合格している自信はあったが、合否が書いてある封筒を開けるのにはそれなりに緊張した記憶がある。
そして封筒を開けて『合格』の2文字が書いてあってとてもほっとした。
うちの中学から〇〇高校へ行く人が1人もいないのは知っていたが、当時はなおさら新しく仲良くなれる人がたくさん増える、と明るい未来を想像していた。
高校合格してからの中学生活は本当に遊びまくった、授業も遊びみたいな授業ばかりになっていて、毎日地区センターで遊んでは公園で遊んで夜になったら家に帰ってパソコンでオンラインゲーム、毎日とても楽しかった、
一生このままでも良いと思ったくらいだった。

中学の卒業式
同じ高校へ行く人は1人もいないのを分かっていたから余計悲しかった。
小学校の卒業式はまったく悲しくも何ともなかったのに、中学の卒業式では号泣した。とてつもなく号泣した。
悲しくて泣いたのかといわればそうではないし寂しくて泣いたのかといえばそうでもないしうれしくて泣いたのかといえばそうでもなかった。
でもとにかく卒業はしたくなかった。
とにかくたくさん泣いてしまった。でもすがすがしい気分だった。卒業式の途中で泣きながら思った。
自分の中学生活は本当に最高だったと。

それから中学生とも高校生とも言えない春休み
1日たりとも遊んでない日はなかった、毎日中学の頃の友人たちと遊んではこれからの高校生活の話で盛り上がったりしていた、
もちろんまだバイトはできないのでお金はなかったが、
最後くらいたくさん遊んで来いと母親がたくさんお小遣いをくれたのを覚えている。

高校の入学式
なにかよくわからないが、絶望した、今まで明るい未来を想像していたが、今までの生活と何かが違った。クラスメイトの顔を見て、なぜか今までのようにうまくやっていけないような予感がしていた、なんというか、何か違う感。思っていたのと何かが違うと思った。
このメンバーで3年間同じクラスでクラス替えもなく3年間もやっていけるのか?と思った

高校生活
中学の頃のビジョンでは、情報科に落ちて化学科に入ったのだからなんとなくパソコン部にでも入学しようと思っていたが、パソコン部見学をしたときに何かが違う感じがして結局入部はしなかった。
高校に入ってから1か月くらいはまともに話せる相手もいなかったが、バレーボール大会の時に班を決めなくてはならなくて、その時にようやく話す相手ができたと思う。
でも今までの中学生活とは圧倒的に違った。なんというか、毎日楽しくない、学校がつまらない。
座っていても話しかけてくれる人もいないし、中学の時は毎日していた寄り道も1回もしなくなっていた。

先生からのメッセージ
「御卒業おめでとうございます。嫌なことも思い出させてしまってごめんなさいね。言い訳になってしまいますが、、でも過去をふり返ることは必要なことです。大学では、この高校時代の経験を活かして、充実した楽しい毎日を送って下さい。また、どんな経験も決してムダということはありません。
これから活躍、成長を期待しています。お元気で。」

以上



読んだ感想


へ、ヘタクソ……!!!!!!!!!!!!!!!
死ねー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

「よく◯◯したことをよく覚えている」とかいうクソ文を多用しやがって……「記憶している」ばっかじゃねえかお前ん家……

小癪にも、"高校がつまらなかった"という事を表現するために、
それ以前の思い出はたくさん書いてあるくせに、高校は入学式とその後のエピソードを少し書いて「寄り道もしなくなっていた」で締めて絶望感を表現する構成自体は悪くない。ただアイデアに文章力が追いついていない。

しかし、中学の卒業式を振り返っている時のあまりにも直情的な表現は今の僕には到底できない。これは間違いなく17歳の僕にしか書けなかったものだ。


もう弁明のしようもなく、言い訳の余地も効かない大人になってから、あくまで客観的に昔を振り返ってみると、高校受験シーズンに「公立に落ちたら家族全員お前のせいで引っ越しだからな」「弟はこれから中学生なのに可哀想だ」と脅してくる親も十分に悪ければ、遊び呆けてろくに高校見学に行かなかった僕も大概悪い。
アラサーもすぎてようやく、僕の高校生活がつまらなかった、高校選びを間違えた理由の半分は自分が作り出したものだと受け入れられるようになった。
まあ、当時の親の理不尽さ、ヒステリーの起こしっぷりをもう忘れてしまったからというのもあるだろう。忘れると人は丸くなるのだ。


たしかに、今ふり返っても僕の高校生活は死ぬほどつまらなかった。
それは卒業してからかれこれ12年以上が経過しても、大人になってしまっても、決して風化することはない。
解釈を変える余地は既になく、情報として不変であり、絶対的な事実だ。

ただ、高校3年生の、まだこれから先の人生で長く続く後悔を始めたばかりの僕から日本国憲法第9条のように託された、
「これだけは、美化してはいけない」
「いかなる時が流れても高校生活を美化することは許さない」
原初の後悔、人生で始めて本気でした取り返しの付かない後悔を忘れるな、その思いは、今でもしっかり、暗く冷たい後悔の炎として、心と押入れの最も深いところで静かに埃にまみれ、燻りながら一定の温度を保っている。

いいなと思ったら応援しよう!