未入居物件丸太小屋築29年プライスレス

風呂場で丁寧におちんちんを洗っている時に、ふと、さほど脈絡もなく天啓が降りてきた。

ひょっとして僕は愛情と性欲が結びついていないのではないか?

これを聞いたら、人によってはお前は何を言っているんだと思うかもしれない。

「普段えっちな画像ばっかりふぁぼしてるくせに、デカパイと見るや、ムチムチ太ももと見るや、同人誌やらASMRを買うくせに!」
「そして新しいソシャゲのキャラデザが気に入ったエチ娘がいれば"知れば抜けなくなる気がする"などと譫言をのたまいながらプレイもせずエチ絵を検索するくせに!」
「さらにAI作品と見るや舌打ちをして絵柄は綺麗でなくとも良いからと”本物”を探すクセに!」
と、思う方もいるかもしれない。

しかしながら、本当に、好きなキャラでは抜けない。

きっとこれを読んでいるそこの童貞オタクくん気質なそこのキミにも心当たりがあるだろう。
これが理解できてしまうきみたちなら、ここまでで既に僕の言いたいことは伝わるはずだ。

もしこれを読んでいるのに伝わらないオタクくん以外の方のためにも、少しだけ現実の喩え話をしよう。

13歳くらいから、思春期という航海で盛大に座礁して頭がおかしくなる17歳くらいまで、僕は一般的の感性をもった男子中学生・男子高校生だった。はずだ。たぶん。
少なくとも自分ではそう思っていた。
たぶん当時好きだった子もいたハズだし、今思い返してもあれらはおそらくは恋愛感情だったのではないかと思う。

それでも尚、真っ当な脳みそと健全な性欲を持て余したその当時でさえ、恋愛感情を抱いている対象に対して(少なくとも今でもそ思っている)
チンチンを股に挿れたいだとか、乳をむしゃぶりつくしたいだとか、太ももを抱き枕にしてチンチン擦り付けながら寝たいだとか、思ったことなんてなかった。普通に考えて好きな子の口にチンチン入れるってなに?頭おかしいだろ。

そして、その時の僕が、その子たちとどんな風に過ごしてみたいか、枕に頭を委ねて空想していたのは、概ねこんなようなことだった気がする。

麗らかな春の日は、彼女の作ったお弁当を持ち、原っぱとベンチのある近所の公園に散歩に出かけ、暑い夏の日は、家でアイスを食べ麦茶でも飲みながら、あまり自分好みではないタイプのゲームをやってみたり、興味のない恋愛映画でも鑑賞したりする。
空高い秋の日には紅葉狩りを兼ねた神社仏閣めぐりや、味覚狩りに旬のぶどう、りんご、みかん狩りなどに出かけ、明くる日には2人でレシピを見ながらタルトでも焼く。
木枯しが吹いたら、初冬のうちに厚手のガーディガンとマフラーでも選びに出かけて、お互いの似合うコートを探して何月まで着ると思うかについて話そう。クリスマスになったらそれを着て街に繰り出し、でもお互いに普段より気合を入れてお洒落して……

13歳~17歳くらいの僕

いや、なんだこれは、Backnumberの曲か?お前の頭はハッピーセットかよ。

しかし、ここまで考えても、おちんちんの介在する余地がない。
どこにいったんだ、僕のおちんちんは。

東にえっちな画像を見るやイってブクマをしてやり、西に突かれた女あれば、勃って息子の種を撒き、南に死にそうな女あれば、かわいそうなほうが抜けると言い、北にNTRやBSSがあれば、つまらないからやめろと言い。
そういうものではなかったのか?
やはり純愛しか存在しない。

ふと思い出すのは、あの丸太小屋とプラトニックな愛についての怪文書。
あの文章をはじめて読んだ時に、僕はただのインターネット・ミームとして笑い飛ばして、次の流行りと共に忘れ去ることなんて出来ないんじゃないかなと思った。

僕が理想とする愛情の解釈はきっとあのトチ狂った文章に存在する丸太小屋の生活に限りなく近い形をしていた。

密かに腰の炎が燃えそうになることがあっても、僕は2階に上がりエロ画像を漁る。

一番好きなものに対して、一番下品だと、浅ましいと思うことをして良いわけがない。殴ってはいけない、殺してはいけない、チンチンを挿れてはいけない。たとえ了解があっても、それらを暴力だと認識している自分がいる。

愛情があるものほど、自分の原始的で本能的なモノとは別のところにある、自分の人生で会得した理性と感性で以て、遺伝子を遺すという人間の全ての行動規範の文脈と切り離して、動物や花を愛でるように、しかしより多くの愛情を向けたい……のか?自分でもよくわからない。

僕がしたいのは、えっちだと思うものに誰も傷つけずに遺伝子を無駄に散らす行為であって、好きだと思うものにわずかでも本当に遺伝子を遺す可能性があることなんて、できやしないし、したくもないのだ。

立ちんぼが日夜話題になっているようなこの時代に、愛してもいない者にチンチンを挿れて良いわけないと考える理性の美しさと、愛している者にチンチンを挿れて良いわけないと考えてしまう本能との歪みにより、自分以外の誰にも価値のない貞操を抱えて生きていくのだ。自分以外に誰にも見つからない築29年の丸太小屋の中で。

おそらく僕の現実の人生にあの丸太小屋は現れないだろう。
どこかしら共感を覚えたそこのきみにとってもまず丸太小屋なんて現れやしない。

それでも僕は、僕やきみの心象にあるその丸太小屋を美しいと思う。
僕やきみと同世代の人間が現実の恋人と住むために建てた現実の家より、あるいは己では一生に手の届かないような持つ者が手にした都会のタワマンより、僕はその入居者未定の丸太小屋を誇らしく思う。


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