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無題/藤宮舞美

 私は特に何か書くネタがないのだが、飄々に何か作品を出さなくてはいけないので、大変困っている。
 別に飄々に作品を出すことは強制ではないのだが、折角國文研にいるのだし何か書きたいとは思っている。ネタになりそうなものはないかと街をうろついては見たが、風変わりなルンペンも博覧強記な変人も現実にはいなかった。
 そもそも、小説とは何だろうか。私はこの冊子に寄稿するときに深く悩んだ。広辞苑によると文学の一形式と書いてある。かの有名な作家、芥川龍之介は辞書の言葉より小説の言葉は美しくないといけないと語っていた。また、小説は「話」の上に立つものである。とも語っている。なるほど、私の話は小説ではないということか。
 では、小説の話になる部分を見つけ、描き、それから言葉をクリスマスのイルミネーションのように豪華に美しく、煌びやかに飾り付ければならない。しかし私にはその核となる「話」がないのだ。
 サルトルは文学について書かねばならないとも言っていた。書くことにより客観的に物事を捉え、本質を見極めなければならないのだ。そして、幸運なことに私は飄々の締め切りに追われ、書くという行為をしているわけである。つまり何が言いたいかと言うと、私にはネタがない。だが書かねばならないということだ。
 日本の探偵小説の生みの親、江戸川乱歩は小説のネタが思い浮かばず、締め切りも近いとなるとひょいと一人で逃避行をしたそうな。私もどこかふらっと一人で旅すればネタが湧いてくるのだろうか。しかし、旅をした所で編集者は待ってはくれない。何せ締め切りはあと一時間ないのだ。
 旅をしている余裕などない。
 では、ネットサーフィンをしたり、本を読んだりしてネタを探せば良いのではないか、ナニ、今の時代ネットにありとあらゆるものがあるからネタ探しなんて簡単じゃないか。そう読者諸君はそう思っただろう。
 しかし、違うのだ。
 これは書いたことのある人間にしか解らないと思うのだが、ネットでネタを探すと思いついたものがn番煎じだったり、頭では物語が出来てもそれを表現する技量がなかったりするのだ。それに、いつの間にかネットサーフィンに精を出し、肝心の小説を書くという行為自体を忘れてしまう。
 読者諸君はきっとそれは自分が悪いのではないか。そう思うだろう。或いは、なぜもっと早く書かないんだと思う人もいるかも知れぬ。
 しかしだな、締め切り直前になってやっとやる気が出る。これが作家という悲しき生き物の性なのだよ。
 この特性を知ってか編集者は仮の締め切り、本当の締め切り、ガチの締め切りを使い分けるのが基本である。それほど物書きという生き物は締め切りギリギリにならないと仕事をしないダメダメ人間なのだ。
 そのため、外部には頼れない、頭を雑巾絞りしてもネタが出てこない最悪な状況の完成なのだ。
 芥川の語る「話」と言う物語の根本的なものはネタの上に成り立っているものなのである。
 本質と言うのは物事のネタからゆっくり拡大していき、細かい部分まで見る事が大事なのであって、根本の議題、つまりネタがなければならないのである。
 しかし、私にはそのネタがなく、ネタ探しに失踪する時間も、外部に頼る時間もないのだ。
 絶望的である。
 読者諸君よ、まだ私の文を読んでいるのなら飄々に載せるための小説のネタをくれ。
 私は今、ネタ切れなのである。

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